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 今日一日の仕事を終え、バロンは疲れた足でヨーゼフの執務室へと向かった。
 報告しなければならない。そんな名目はつけたものの、明日でも良いものを今日に回すのは、単純にヨーゼフの様子を見たい、そんな理由からだった。
 一見、ヨーゼフは何も変わらない。
 王太子の頃から、王の執務の半分以上はヨーゼフのものであり、即位で変わることなど、そう多くはない。
 だから、淡々と仕事をこなすヨーゼフが抱える負担は、死の混乱を過ぎてさえしまえば、そう大きくはないはず。
 しかし、バロンの目から見ると、彼の主君は明らかに疲弊しているように見える。
 それは、屈託ないヨーゼフ、という一面を知るバロンだからこその感覚で、普通に接している分には、なんら変わりのない姿だったろう。
 だからこそ、不安だ。
「陛下」
 部屋へと入れば、ヨーゼフは書類を読んでいた目を止め、入り口のバロンを迎えた。彼はいつも通りの笑みを浮かべ、バロンの報告をきく。
「分かった。ご苦労」
「……なぁ、ヨーゼフ」
「うん?」
 何だい、という声に、おかしな響きはない。なのに、バロンは無性に不安になり、思わずこう切り出していた。
「何か、ひっかかることでもあるのか?」
「……何を言ってるんだ、お前は」
「最近のお前は、少しおかしい」
「それは……」
「疲れてる? ああ、最初の内はそう思ってたよ。だが、もう二週間だ。お前なら、切り替えていくだろう、と思った。だが」
 バロンは、そこでぐっと呑み込んだ。言いたくない、だが、確かめたい気持ちが先立ち、ついに口を開く。
「お前にとって、王の名は重いのか」
 沈黙があった。少しし、ヨーゼフはそっと首を横に振る。
「この程度のもの、重いはずがない」
「……そりゃまた、頼もしいこって」
「頼もしい、か?」
 ヨーゼフの口元が、ふっと歪んだ。
 その歪みをバロンは、何となく美しい、と思った。
 綺麗に曲げられた唇が、その形に相応しい澄んだ音を立てる。
「不要なものを、とりあえず維持する。その程度のこと、気負うこともないだろう。動かなくなってきたなら、また新しいものを据えればいい」
 一瞬、耳を疑った。
「何?」
「王は、この国にとって不要なものだ」
 何を言う、と宥めるのが、バロンの役目だったのかもしれない。
 さもなければ、彼の胸倉を掴んで、何を言っている、と怒るのが、バロンの性質だった。
 だが、どちらも出来なかった。
 それくらい圧倒的な、何かが込められた視線に、バロンは知らずと一歩下がる。
「母上は、時代が時代なら、名君だったかもしれない。けれど一つ、大きく間違えた」
「間違えた?」
「あの女は、王ではなかったんだ。王ではなかったんだよ、バロン」
 母ではなく、王妃でもなく、あの女と呼んだことに嫌悪感を抱きながらも、止めることが出来ない。
 ああ、この目は。
 この全てを拒絶するような目は、当人がいかに言おうとも、あの方と同じものだ。
「時代が、あの女を王と選んだのなら、この国は王を抱くことを望んだのだろう、と信じることが出来たかもしれない。けれど、時代は彼女の死を望み、そしてあの王の時代を作ってしまった」
「ですが、時代は貴方を王へと押し上げた――」
「時代が押し上げたのではないだろう」
 その声は厳しいようで、やんわりとバロンの耳に届く。すい、と挙げられた手が、静かにバロンを指した。
「お前達が押し上げた」
 がたん、と音がした。自分の背中が後ろの書棚にぶつかった音だった。
 目の前の主君が、静かに問うのを聞く。
「何故、父を? どうして、こんな形で?」
「……っ、それは……っ!」
「理解はしている。お前の判断は正しいのだろう。少なくとも、あの王を存続させることはもう出来なかった」
「けれど法は、それを認めてはいないはずと言いたいのか?」
「法?」
 いいや、と彼は笑って首を横に振る。
「法は、民のものだ。民が望むのなら、違法もまたやむをえまい」
 だから、とヨーゼフは続ける。
「言ったろう、お前の判断は正しいのだ、と。もし罪というのなら、父上は愚かだった。それは罪だった。それだけのこと」
「なら、ヨーゼフ。お前は何を」
「ねぇ、バロン。知っているかい?」
「え?」
「父上はね、あんな人だったけど、それでも母上が生きていた時は、もうちょっとマシだったんだよ」
 その一言で、分かってしまった。
 自分のやったことの、良かれと思ってやったことの、意味が。

 彼は、王位を望んだことはなかった。王子として、精一杯の責務を果たし、あの王から色々なものを守りながらも、一度だって王位を望んだことはなかった。
 それはただ単に、彼が王になりたくないが故だと考えていた。
 だが、それだけではなかったのではないか。
 誰もが認めなかったあの王を、陰で嘲笑っていたあの王を、誰よりも馬鹿にした素振りを見せながら、この人だけは。

 ふ、とヨーゼフが苦笑いを浮かべた。
「すまない。そんな顔をさせるつもりはなかった」
 だが、と彼は目を伏せて言う。
「お前がこの国を想って、俺を信じてやってくれたというのなら、知る義務がある」
 権利ではなく、義務、と彼は言った。
 違うのだ、と首を振ることすら出来ず、バロンは黙って彼の言葉を聞く。
「母上は素晴らしい王妃で、素晴らしい方ではあったけれど、既に人間の何かを越えていたように思う」
 初めて聞く、言葉だった。
 薄々、気づいてはいた。彼ら親子の希薄性と、ヨーゼフから母親へ向けられる情の薄さに。
 それでも、一度だってそれを口にしたことのないヨーゼフが、今、バロンにそれを告げる意味。
「皆は、俺を母に似ているというけれど、自分だから分かる。俺は人間だよ。どこまでも下らない、人間というものを、いつまでも捨てられやしない、人間だ」
 分かっていたろう、という声に、バロンはうなだれるしかない。
 知っている、と言えなかった。知っていたくせに、バロンにはもう、頷く余地がない。
 ヨーゼフは王なのだ。
 一個人であることを捨てて、どこまでも王として、生きていくのがヨーゼフの義務だろう。そしてバロンもまた、ヨーゼフをずっと支え続けるのが義務のはずだ。
 バロンが望むこと。それはヨーゼフの望むことと共にあった。ずっとそう、自負してきた。
 叶えてやりたいと思っていた。出来ることならば、出来る限りは。
 けれど、バロンは、彼を王に、と望んでしまった。
 結局、人としてのヨーゼフの望みは叶えられない。何一つ。
「お前のやったことは、そういうことだ。王を得たのではなく、ただ、人をすげ変えただけのこと」
 バロンはそれに応えることが出来なかった。
 否定することも、肯定することさえ、出来なかった。
 

素材配布元:「神楽工房」様