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 それは、王妃様が崩御された日のこと。
 最期を看取ったのは夫である国王ではなく、一人息子のヨーゼフだった。
「私は、良い母親じゃなかったわね」
「母上――」
 力なく笑う王妃の手を取るヨーゼフの表情は、王妃以外の誰にも分からなかった。
 ただ、彼の返した言葉だけが耳に届く。
「私も、良い息子ではありませんでした」
 その言葉に、彼女は大きくかぶりを振って、そのまま何も言い残すことなく、ファーシルの国母はその生涯を終えた。



 ヨーゼフの実母であった王妃は、慎ましやかで賢く、国民からの圧倒的な支持を集めた女性だった。
 まさに、国母と呼ぶに相応しい人物。
 そしてヨーゼフは、とても彼女に良く似ていた。
 趣味にしろ、執務と答えられても不思議ではないくらいの、禁欲的な男だ。
 そう、ヨーゼフは、絵にかいたような品行方正な王子様だった。それはもう、面白みのないくらいに。
 そう繰り返し、バロンはそっと天井を仰いだ。
「いい加減、自分の執務室に御戻り頂けませんか、殿下」
「うーん、あともうちょっと」
「ははははは、私はあと十分ほどで帰宅しますが、それでもよろしいですかな」
「……う」
 ああ、また負けてる。
 主君のがっくりとうなだれる様を見ていると、これが我が主かとほんの少し情けなく思うのを通り越して、むしろ感動を覚える。
 これほどアプローチが下手な男を、見たことがない。
 最初の方は、どこの誰を参考にしたのか、割と強引に、上段から迫ることの多かった。だが、キルシュの反応を見て、学ぶところがあったのか、最近はもう少し婉曲にアタックすることにしたようだ。
 だが、それでも最初の印象が悪すぎたのか、キルシュの反応は冷ややかなままだった。
(……というかなぁ、こいつは)
 そもそも、脈がないんじゃないだろうか、ヨーゼフ。
 そんな風にすら、思えてしまう。

 バロンの目から見ると、キルシュという男は、意外と抜け目のない相手に映った。
 一見、真面目な堅物と思われる彼だが、彼と共に名が挙げられるアリュードとは対照的に、立ち回り方は割と狡猾なのだ。
 名門ヒルズ家の当主として、常に脚光を浴び続けるアリュードは、いかにもお坊ちゃん育ちの甘さと同時に、人を惹きつけてやまない強いカリスマ性を兼ね備えた、まさに正義の象徴。
 対する彼は、常にアリュードの日陰に立つ、ある意味で不幸な境遇だが、何故かあまり憐れさを誘わない。
 おそらく、キルシュには、周囲の思惑など、物ともしない図太さがあるのだ。
 正義など語らぬキルシュは、繊細な容姿に助けられているものの、実は剛腕で強情な気質の男で、その仕事ぶりには育ちの粗暴さが見え隠れする。

 ある意味、アリュードとは違った意味で、人を惹きつける男ではあるが、自分がトップとなる器ではないことも理解しているのだろう。だから、アリュードの為の宣伝係にこそなるが、それ以上を果たそうとはしないのだ。
 そういう意味では、上に立つ性質のヨーゼフとは、相性がいいように思える。
 だが、なんというのか――
 おそらくキルシュでは、ヨーゼフという王に大した魅力を感じられないのだ。
 ならば彼は、一生ヨーゼフを支える存在にはなるまい。
 見る度にそれを思わずにはいられないバロンとしては、様々な意味でこの想いを諦めてほしいところだ。
(だが、なぁ)
 それは、言えないことなのだ。
 だからバロンは、苦笑いを浮かべて、この二人を見守るしかない。
 危うい想いを抱えたままで。



 あれは、ヨーゼフに仕えてからしばらくしてのことだった。
 何故、これほど良く出来た王子様が、城を抜け出すなどという不届きをやってのけてしまったのか。
 その疑問を、バロンは率直にぶつけてみた。
「……覚えてない」
「え?」
「大した理由じゃなかったんだと思うよ。思い出せないくらいだし」
 嘘を言っている風ではなかった。淡々と、事実を述べただけ。
 少し前のバロンなら怒っただけで終わったろう。けれど、その頃のバロンにはもう、その言葉だけでは信じられなくなっていた。
 彼は、そんな人じゃない。
 だからバロンは、勇気を出して次の質問を投げかける。
「王子様として生きるのって、大変じゃねぇの?」
「じゃあ、バロン」
「うん?」
「王子の遊び相手として生きるのって、大変じゃないのかい?」
 質問で、質問を返すな。
 そう毒づいたバロンに、言えない内心を見てしまったのだろう。だが、ヨーゼフは特に咎めることもなく、平然としている。
「同じだよ。大変だと思ったら大変だし、そうじゃないと思うなら、それはとても楽なこと」
 さばさばと言ってのけ、彼はほんの少し寂しそうな目をして、窓から空を仰ぐ。
「……それに、僕には力があるから」
 そう笑うヨーゼフを、眩しく仰いだのはいつの日のことだろう。

 バロンは、ヨーゼフを知る第一の、そして唯一の人間だった。
 だから識る。彼の孤独を、そして危ういバランスを。
 それでもバロンは、彼こそが王となるべき人物だと信じている。
 ――でも、それでも。

 思ってしまう。
 ヨーゼフの幸せを願うならば、きっとそれは願ってはいけないことなのだ、と。

素材配布元:「神楽工房」様