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 本当に、勘弁してほしい。
 その呟きが聞こえていないはずもないが、目の前の青年はめげずに部屋に居座っている。
 特に何を話すでもなく、かといって退屈そうでもなく、そこにいられると鬱陶しいのだ、とも言えずに、キルシュは黙々と法律書を手繰る。
 もちろん、内容なんて、頭に入っていない。ただ単に、ヨーゼフと話すことを避けたいから、本に没頭しているふりをしているに過ぎないのだ。
 ……本当に、勘弁してほしい。
 こっそりとヨーゼフの方を盗み見る。
 窓際の椅子で、ぼんやりと外を眺めるヨーゼフは、普段の毅然とした表情とはうって変わった、柔らかくて掴みどころのない瞳をしていた。
 ある時は勇ましい王子で、ある時は屈託のない慈愛の笑みを浮かべる王子様。国民の前で、どっしりと手を広げる彼は、ファーシルの希望であり象徴。
 式典の時、自分よりも高みに颯爽と現れた、あの人と目の前の彼は。
(違わない)
 同じ人なのだ、と思うことで、なんとか平穏を保っている自分が、どうしようもなく情けない。

 頬に添えられた細い指に、思わずどきり、とする。

 あの、指。

 がたん、と椅子に当たった音に、はっと我に返る。
「……殿下」
 その言葉が、自分を押し留める。
 落ち着け。
 自分が目の前にしているのは、王子様だ。
 それ以上、何を知っているというのだ。

 一人の人間としてのその人を、どれだけ知っているという。

 確かに、キルシュはヨーゼフ王子という存在を知っている。
 その御方には敬意を払う。
 この国に生まれ、そしてこの国に生きる者として。
 そして、好敵手として。
 けれども、それ以上の感情を持てるか、と言われれば、それは違うのだ。
 キルシュにも、この人にだって、立場というものがある。
「……キルシュ?」
 怪訝そうにかけられた声に、つっけんどんに返す。
「帰ります」
「ああ、そうか。もうそんな時間なのだな」
 軽く前髪に手を添えて、屈託なくそんな風に言うヨーゼフに、皮肉の一つも言ってやりたくなる。
「貴方も執務とか執務とか執務とか、色々あるのではないですか」
 はは、と笑って向けた背に、伸びそうな指をぐっと握り締めることで耐える。
(背中は――)
 苦手だ。
 あの時のことを、思い出す。
「また、ね」
 そう笑うその人に、仏頂面で返す言葉。
「次はありません」
 笑い声と同時に閉ざされた扉を睨んだまま、キルシュははぁ、とため息をつく。
 机に手をついたまま、そっと天井を仰ぐ。

 次など、なかった。
 彼の勘違いを訂正する機会など与えられないまま、ヨーゼフは勝手に自分を男だと認識して、勝手にそれでもいいと自己完結。
 どれだけ勝手なのだ、あの男は。
 どれだけ自分を振り回すのだ。
 どうせまた、彼は自分の前から姿を消す。
 興味を失ったとか、飽きたからとか、そんな理由だとは思わない。
 きっと彼はまた、王子としての責務の為に、この時間を諦める。

 王子だと知ってようやく、あの花冠の意味を知り、あの別れの意味を知った今となっては、そんなヨーゼフの生き方に苛立ちしか沸かない。
(じゃあ、僕も貴方に、名を)
 そうだ、自分が知る彼は、ヨーゼフでもなければ王子でもない。
 自分の知るあの少年は、もうどこにもいない。
 だから。
「……覚えているのは、俺だけだろう」
 ぽつりと呟いて、キルシュは固く唇をかみしめた。

素材配布元:「神楽工房」様