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 夢を見た。
 色とりどりの絨毯。広がる空に、髪を揺らす風。
 伸ばした手のひらは小さかった。けれども精一杯、その手を動かして、花を摘む。
 その手に、小さな別の手が重ねられた。

 ――ああ、彼の手だ。

 忘れたことはなかった。けっして、良いばかりの思い出ではなかったけれど。
 思い出すことはなかったけれど、消えたことのない記憶。
 おずおずと差し出す手。どこか頼りなく揺れる目が、笑いかけた途端、安堵の色に変わるところ。
 子供心に、悲しいと思ったことを覚えている。

 会ったばかりの頃の彼は、常に自信のなさそうな、覇気の薄い子供だった。
 けれども、キルシュから見れば、何故彼がそんなに自信を持てないのか、全く理解出来なかったのだ。
 確かに、その頃のキルシュはけっして知識層の人間ではなかった。
 けれどなまじ生まれのおかげで、キルシュは知識階級の人間を見てきたし、彼らの理解力、伝達力の質を知っている。
 だから、思ったのだ。
 この子はとても賢い。
 最初の花冠もそうだったが、その他にもキルシュが投げかけた質問や手作業に、彼は実に的確に応えてみせた。
 遊びだと思い込んで。
 それがまるで、とても簡単なものだ、というように。
 だが、それを褒めると、彼は当然のように言ったものだ。
「君の教え方が上手いからだよ」
 そんなはずはないのだが、そう言ったところで通じない何かを感じて、キルシュは曖昧に笑うに留めた。
「――そういえば、君の名前は?」
 すると彼はたちまち表情を曇らせて、言いにくそうに目を伏せてしまう。
「ごめん、答えられない」
「え?」
 彼は寂しそうに、こう言った。
 僕の為の名前はないから、と。
「だから、君の名前も聞かないよ。自分が答えられないものを、聞くのは悪いから」
 心底、申し訳なさそうに彼が言ったあの瞬間から、薄々感じていたものが、確信に変わった。
 思えば、彼の素性を知らない頃から、キルシュは彼との間に壁のようなものを感じていて、住む世界の違いを何となく知っていたのだ。
 彼が未来の王と知った今だからそう思うのか、といえば、むしろそうは考えない気がしてしまう。
 だが、あの頃のキルシュは確かに、どこかで予感していたのだ。
 だから言った。
「……じゃあ、ぼくが名前をあげるよ」
 それはキルシュと彼のものだった。
 キルシュにとって、彼とはその名の少年。

 ――だから。

 その名を知らないヨーゼフは、キルシュの中で、彼ではなくて――
(どうして彼は)
 あの約束を、忘れてしまったのだろう。

素材配布元:「神楽工房」様