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 ばさりと長いマントを外す瞬間、キルシュの表情が大きく緩む。
 その変化は、はっとするほど鮮やかで、当人が気づかないのが奇妙なくらいに、その二つは明確に違う。
 人気のない司法院奥の廊下。法廷の扉から出て部屋の方へと向かう途中、ひっそりとキルシュの横へと寄り添う気配があった。
「ラヴァン」
 キルシュが名を呼ぶと、彼の肩から、ほっと力が抜けるのが分かった。思わず、キルシュの唇から、笑みがこぼれる。
「どうした、ラヴァン。いつも、執務室で待っているのに」
「うん……」
 言葉を濁し、ラヴァンはそっと視線を足元に落とした。その仕草に、キルシュはふと眉を寄せる。
「……まさか」
 何も言わず、ただ視線だけで応じたラヴァンは、困ったような顔でこくん、と頷いた。
 「そうか」
 キルシュは憮然と呟いて、大きく肩を落とした。
 ラヴァンのことだ、最初は執務室にいて、誰かとかちあったのだろう。
 立場上、キルシュの執務室というのは、用のある人間以外、入ってくるような場所ではない。そういう人間は、ラヴァンの存在を知っているし、今更困って逃げ出してくるようなことはないだろう。
 たった一人、以外は。
 その、困った一人の顔を思い浮かべ、キルシュは大きくため息をつく。
「全く、困ったものだ」
「……気をつけた方が、いいよ」
「え?」
 ラヴァンはひた、とこちらを見上げると、ささやくように早口で言った。
「普通の人はまだ知らないけど、大分噂にはなってる。具体的に誰だ、ってところまではいかないけど」
「それは、俺も聞いてる」
「でも、あの調子じゃばれるのも時間の問題だよ」
 だろうな、と口元を引き締める。
「そうなったら、キルシュさん……」
「そうだな」
 けれど、本当にこちらを心配している様子のラヴァンに、そういうところは見せる訳にはいかない。
 だから、キルシュは努めて平然と振る舞う。
「俺には、その気は全くないんだけど」
「へ? そ、そうなんだ」
「うん、全く」
「そっかぁ……」
 ほっと肩を落とすラヴァンは、安心したような拍子抜けしたような、そんな表情を浮かべていた。
 何故だろう、と思いつつ、ラヴァンの不安を取り除けたようなので、ひとまずキルシュは満足した。
(――しかし)
 面倒なことになった。キルシュはそっと心の中で毒づく。
 他人事であれば、素敵なロマンスじゃないか、と笑っていられたものを。
 それは傍観者だからで、当事者にしてみれば、こういうことはままあることなのだろう、と思う。それを薄々感じながら、横で応援しているよ、と笑っていられるキルシュの傍観者性質も、実は相当に酷いことなのだろう。
 だから、キルシュが今、こういうことになっているのは、いわば天の配剤かもしれない。

 元来、キルシュは厄介事から逃げたい性質なのだから。

 そもそも、恋愛ごとというものは、キルシュにとって鬼門でしかない。

 キルシュには、愛情と欲望の区別がつかない。
 彼にとって、恋愛感情というのは一時の火遊びでしかない。
 また、彼はそういう相手を見つけるのがとても上手かった為、裏では相当なことをしながらも、表面上は紳士で通してきたし、それが通用してきた。
 現実、彼は紳士ではあるのだ。
 無理強いはしない。その気のない相手に、仕掛けたりしない。
 だが、だからといって、自分が真面目で誠実な紳士なのだ、と思いこめるほど、キルシュは明るい性質ではなかった。

 もちろん、キルシュにはまともな一般常識というものが備わっている。
 だから、自分がずれていることは分かるのだ。
 だが、感情など、コントロールは出来ても、好きなように変えられる訳ではない。

 だから彼は、法の守護者であることを望んだのかもしれない。
 そうでなければ、律しきれない自分をどこかで知っていたから。
(――自分を律する、か)

 ふと、ある人間の顔を思い浮かべてしまい、しかめつらになってしまう。
 でも不思議なことに、もっと律しろとは思わない。
 何故だろう。迷惑だとは感じているのに。

 ふと視線をずらした時、横にいるラヴァンの頭が目に入った。
 その時、ああ、と思い当たることがあった。
 そうだ、自分は知っていたんだ。あの子が、ずっと自分を抑えつけてきたことを。
 あの幼い頃を共にした少年が、ずっとそういう子だったと知っているから、自分は。

 だが、今、自分と向き合っているのは、ヨーゼフ王子で、あの時の子じゃない。
 それが分かっているのに――
 そんな自分の気持ちを、キルシュはうまく説明することが出来なかった。

素材配布元:「神楽工房」様