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 ぱちり、と瞬き一つ。差し込む日差しの目映さと、広がる緑の海。
 その残像を残しながら、白い天井を眺めることしばし。

 ――夢か。

 そのことに気づくと、ほんの少しの気恥しさを覚える。
 気だるさを押し殺して何とか起き上がると、キルシュは枕元の懐中時計を手に取り、小さく舌打ちした。
 重い足取りはそのままに、階下へと降りていく。
 のそりと顔を出せば、台所から聞こえていた、リズミカルな包丁の音がやんだ。
「おはようございます」
「……おはよう、キャスリン」
 そう言うなり、ばたりと食卓に伏した兄に、あらまぁと目を丸くしながらも、彼女は涼やかに笑うだけ。
「御行儀が悪いですよ、お兄様」
「ああ、分かってる」
「お兄様はそればかりですね」
 うん、と生返事一つ、目を閉じてしまう兄を見守る瞳がかすかに細められた。
「でも最近、特にお疲れのようですけど」
「……そんなこと、ないよ」
「ですけど……!」
「大丈夫だよ」
 キルシュはそう笑ったけれど、妹の顔を見るでもなく、その言葉が空々しいことに気づいてしまった。
 はっきりと分かるほど、自分の声は力ない。
「お兄様」
「夢をよく見るんだ。だから、どうも眠りが浅くてね」
「……きっと、お仕事のし過ぎなんですわ。だから、ぐっすり眠れないんでしょう」
「そうかな」
 しばし考え、キルシュはふぅ、とため息をもらした。
「そうかも、ね」



 執務室に入ると、そこには見知った顔があった。
「ラヴァン」
「おはようございます」
 にこりと笑って一礼する少年の姿に、キルシュの表情は自然と和らいだ。

 まだ幼さの残る風貌に、似つかわしくない堅苦しい服装。けれども、その目の配り方や柔和な表情からにじむものは、彼をただの子供には見せてはくれない。そんな様子から、同職と言っても通用しそうな彼だが、実は本来、この場所にいるべき人間ではないのだ。
 キルシュ自身、彼を重用しながらも、時折そのことにためらいも覚える。
 そのくらいには、キルシュは彼を買っていたし、彼の未来を案じてもいた。

 子供は、子供らしく生きる権利がある。
 それがキルシュの持論だった。
 もちろん、覚悟をもった上で、少年がここにいることは理解していたけれど、それでも彼の心は思ってしまう。
 急いで大人になどならなくていいのに、と。
 限られた時間の中で、その時にしか出来ないことがもっともっとあるのだ。それを全う出来ないことは、ひどく哀しいと感じてしまう。

 だから、とても哀しかったのだ。
 彼が、あんな風に笑うのが。

「……キルシュさん」
 はっと顔をあげ、少年の心配そうな目に気づいて、苦笑する。
「顔色が悪い、って?」
「分かっているのなら、休むべきだと思いますが」
「特に、多忙という訳でもないがね。それでも、一日休むと落ち着かない」
 肩をすくめてそう答えれば、彼は救いようがない、と言わんばかりにため息をついて言う。
「貴方も難儀な性格で」
「生粋の庶民体質なんだよ、きっと」
「……貴方は、庶民にも貴族にも当てはまらない気がします」
 思わず、まじまじと眺めてしまう。すると少年は、途端に狼狽して、大きく手を横に振った。
「いえ、これは何となくなので、外れているかもしれないけど」
「君の勘は、あまり当たらない……んだっけ」
「はい、それはもう。探偵としては、致命的なくらい」
 はぁ、と妙に可愛らしいため息を聞きながら、キルシュは受け取った書類を置くために、自分の机へと回る。
 この見た目、大人しい印象を与える少年は、ファーシルでも屈指の探偵なのだ。
 司法官としてのキルシュは、出された証拠だけを頼りに物を考える。だが、司法の庭の守護者としてのキルシュは、ここにあるものだけを追っている訳にはいかない。それほどファーシルの司法制度は安定している訳ではなかったし、キルシュの性格がそうさせるところもあった。
 彼は結局、真実にしか膝をつけない人間なのだ。
 そんなキルシュの、ある意味では闇の部分を支え、彼の目となり耳となる存在がラヴァン探偵だった。
 とはいえ、こちらの仕事は、あまり公表できるものでもない。ラヴァンの正規の仕事はあくまで私立探偵であり、キルシュもそちらにはあまり立ち入らないようにしている。

 憮然とした顔を横目で見つつ、キルシュは苦笑いを浮かべる。
「君の場合、理屈に重点を置き過ぎるんじゃないかと思うけどね」
「キルシュさんに言われたくありませんが」
「そうかな。いたって感情的な人間だよ、俺は」
「……そうは、見えませんけど」
「見えないだけだよ」
 そう答え、キルシュはそっと目を細めた。

素材配布元:「神楽工房」様