何かを続けることは、そう難しいことではない。
 維持していく労力は確かに必要だ。そしてそれ自体は、そうた易い事でもない。
 けれども、何かを始めることに使う労力は、それ以上のもので。
 何かをやり直す事に使う気力は、それよりも遥かに莫大。

 維持は惰性混じりでも出来る。
 始めには希望がある。
 けれども、やり直しという作業には、希望では補い切れないほどの絶望と不安があり、そして惰性では乗り切れぬほどの山がある。
 ――だから、これは。
 かなり残酷なことなのかもしれない、と分かっていた。

 それでも、信じようと思うのだ。



「どちらでも良かったんだ、つまりは」
 拳を伝う熱に、僕の腕はがたがたと震えていた。けれども、その手の短剣は離さない。
 かはっと吐き出された鮮血が、服に飛び散り、そして霧となって消える。
「死者の魂は……二つ。召喚された者の魂と、そして」
 声を出すたび、胸に突き立てた短剣から震えが伝わる。そんな僕の手をそっと握り、彼は穏やかに笑った。
 大丈夫だから、と。
「僕もまた、死者が遺した夢に過ぎない。だから、君が重荷に感じることなんて、何もない」
「……王子」
「君まで僕をそう呼ぶのかい。異世界の客人」
 ふふ、と少年らしい笑顔を覗かせたその人に、僕は大きく深呼吸をし、笑みを返した。
「フリージオ」
 呼びかけに一際嬉しそうな顔をすると、彼はゆっくりと瞳を閉じた。
「ありがとう、リュージ」
 その一言に僕は、ごめんね、という声を聞いた気がした。



 ――リュージ。
「え?」
 呼ばれた、と思った瞬間、眼前に広がっていたのはテラスと、そこに立つ見覚えのない青年の姿だった。
「……君は」
 問おうとして、声を詰まらせる。
 美しい金髪とまだ稚さを残す丸い蒼の瞳を持った、綺麗な青年だ。リオデラートも美形だと思ったが、こちらの美形はまた種類が違う。
 神々しさと愛らしさを共存させたような、この姿を、僕はずっと昔から知っていたような気がする。
 そんな僕の様子に、彼はふわりと笑って一礼した。
「リュージ!」
 ぐいと腕を掴まれるようにして、僕は無理に彼の側から引き剥がされる。
「クレオ」
「どういうことなのですか。そのお姿は一体……」
「君はもう分かるだろう、クレオ」
 悲しそうな笑顔で、彼は大きく手を広げた。
「この地にあった死者の魂は二つ」
 ずきりとこめかみに痛みが走る。
 状況の読めない僕は、自分が今いる位置を把握するのが精一杯だ。
 僕はまだこの世界に留まっていて、今、僕の身体は黒の騎士の腕の中にあって。
(え?)
 それじゃあ、この身体は誰のものなんだ。
 目の前にいるのは、誰なんだ。
 僕の疑問が伝わったのだろうか。彼は少し考え、困ったように首を傾げた。
「はじめまして、というべきなのかな。リュージ」
 形良い唇から、その名を紡ぐ。
「僕の名はフリージオ。……君をここに呼んだ張本人だよ」



 理解が遅れた。
 いや、理解が遅れたというよりは、認めたくなかったのかもしれない。
 僕を抱きとめる人の腕は、揺るぎない強さを持っていたけれど、だがごく近くで聞こえる心音は彼の内心を伝えてくる。
 動揺しないはずがない。
 この人は一度、彼を失っている。そして再び、彼を。
「どうして、だよ」
「それは愚問だろう。リュージ。君は幾度も、この世に呼び戻された死者の魂を見てきたはずだ。僕もまた、彼等と同じ」
 ぐらりと目の前が揺れる気がした。

 そうだ、確かにそうなのだ。
 この身体に宿った魂は、身体の記憶に引きずられて、フリージオ王子となるかもしれない。
 けれども、魂の本質は違う。
 この世界で生き、この世界にあったフリージオ王子の魂、それ自体はまた別に存在しているはずだ。
 僕はその事実に蓋をしていた。
 考えないようにしていた。
 そして彼の存在は、僕にその現実を否応もなくつきつける。
「七つ目の呪いを止める手段は二つ。君の魂が変質することで、消滅するのか。それとも僕の魂をこれまでのように」
 何でだよ、という問いが洩れた。自分のものとは思えぬほどしわがれた声が、冷え切ったテラスに響く。
「一度、この場所の呪いは解けたはずだろう。だって俺は」
 消滅したはずだ。
「そうだね」
 でもね、とその人は続ける。
「君は、僕の身体を奪うことになる、そのことばかりを考えていたみたいだけど、それは僕も同じなんだよ」
「それは……」
「僕は君の魂を奪い、君が作った居場所を奪うことになる」
 分かるだろう、と彼は悲しげに、けれども決然とした口調で言った。
「君が死者ならば、僕も死者だ。そして、この世界を去った死者は君ではない」
 分かるだろう、と言う彼に、僕は何も言えなかった。

 分かるとは言えない。
 けれども僕だって考えたはずだ。
 死にたくはなかった。けれども、死んでしまった以上、僕は諦めることでしか、自分の願いを叶えられなかった。
 見たくなかったから。
 僕が存在することで、奪ってしまったもの。それを悲しむ人達の声を聞くのが辛くて、そんな世界で生きていくのが辛くて、僕は全てを諦めようと思った。
 多分、そういうことなのだ。

 すい、と包んでいた腕が解かれた。そして、僕の視界をさえぎるように、その背中が立つ。
「クレオ」
「……見ない方がいい」
 かちりと鞘が鳴った瞬間、僕は――



 風が、時を止めた。
 それは赤い霧を流し、跡形もなく消し去ってくれる。
「リュー、ジ」
 その声を、僕は背を向けたままで聞く。
 僕の右手には、確かに刺した時の感触が残っているのに、その手には何の痕跡も認めることが出来ない。
 けれども、僕のやったことが消える訳ではない。

 とっさの判断だった。
 クレオの腰に下がっていた懐剣を奪ったのも、瞬間移動を可能にする召喚術を使ったのも、そして僕自身の手で彼を――

「仕方なかった、よな」
 場には馴染まぬ、軽薄な声だ。
 自分のものながら、虫酸が走る。
 だが僕はそのままの口調で、彼の傷を抉るような言葉を重ねる。
「これしか手がねぇだろ。他にどうしようもないじゃん。どうしろっていうんだよ。なぁ」
「……リュージ」
「俺は悪くない。俺のせいじゃない。だってこんなの」
 ぐいと背中から手を回された。顔を上向かせることなく、ただ彼は小さく呟く。
「もういい」
 その一言は、ひどく優しかった。
 僕が投げかけた言葉に対するものとしては、ひどく不釣合いなほど。
「言ったろう。少しは、俺を信じてくれ、と」
 大丈夫だから。

 その一言に、情けないけれども僕は少し泣いて。
 あやす様に背を叩く手に、これ以上ないほど救われたのだ。

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