最初、その人はなかなか口を開こうとはしなかった。
「全ては終わったことだ。誰も知らない事実を、蒸し返すことに益はあるまい」
 頑固なまでに、そう言い張った。
 だけど僕も頑固なことでは譲らない。執拗に質問を重ねる。
 その度に、彼の反論も弱々しくなっていく。
「エルネストは死んだ。彼女も魔女に囚われた。本当のところ、私もエルネストの気持ちは分からないままで……」
「それは嘘でしょう――陛下」
 僕のきつい口調に、力なく首を振る。その、追いつめられたような兄の顔に、一瞬だけためらった。けれども僕は、追及の手を緩めない。
「陛下はとっくに知っていたのでしょう。だから、クレオを側に置くことに賛成して、シェスタとリオンを常に僕の側に」
「フリージオ!」
 その語調の激しさに、言い返そうとした僕は、ふとあることに気づいて凍り付いた。
 確かに、陛下は弟達を愛してくれていた。けれども反面、僕よりも余程、他方に目の利く方だった。
 そうだ、この制止はエルネスト兄様への気遣いからじゃない。
 今、ここにいる、彼の恋人に対してのものだ。
 沈黙の果て、クレオは静かに首を横に振った。
「存じておりました」
 勿体ないことです、と笑う。そんなクレオに、僕の心は痛んだ。
 何も知らなかった。
 何も知らず、僕は彼が来てくれたことを喜んだ。
 エルネスト兄様との確執を、ただ相性の問題としか考えなかった、自分の愚かしさに腹が立つ。
「不敬を承知で申し上げますが……エルネスト様は、私に重ねられていたのでしょう。もちろん品格、人格、何一つ取っても比較にもなりますまい。けれど何故か」
「いいや……確かに、お前は似ているよ。こうと決めたら譲らないわがままなところ。そして無条件に兄を慕う、真っ直ぐな心根が」
 耳が痛いのは、気のせいではないのだろう。僕に向けられる視線が、さり気なく抗議の色をしている。
 その空白がどれほどのものなのか、あの頃の僕には想像もつかなかった。けれど、陛下の次の言葉で、その孤独に触れる。
「分かるさ。私も、お前のそんなところに癒されたことが何度もあるのだから」
 穏やかな声音から、感じられるもの。
 それを聞き、僕は思う。
 ――ごめんなさい。
 そっと心の中だけで。



 リュージが消滅してから、一ヶ月が経過した日のことだ。
「リュージ様!」
 そう呼ばれて、あっさりと振り返るのは僕。
 ――フリージオ。
 けれども、僕がその名で呼ばれることはない。
 確かにこの身体は元々僕のものだが、世間的にはフリージオ王子は死んだ人間だ。現在、この身体はリュージという人間と認識されている。
 だから僕は、その事実を受け入れることにした。
 その名に慣れるには、さほど時間はかからなかった。
 けれど。
 リュージの振りをするのは、予想以上に難しい。
 こうして呼び止められて話をしていると、時折相手が困ったような顔をする。そうして、戸惑いを隠さずにいうのだ。
「お加減が優れないのですか?」
「……え?」
「いえ、最近、いつものリュージ様と違う気がして」
 少し不満げにそういう裏に、微妙な感情を読み取ってしまうのは、僕のうがち過ぎだろうか。
 曖昧に言葉を濁して、そそくさと立ち去る。
 そんな日々が、少しだけ疲れる。

「お呼びですか――導師様」
 その呼び声に、僕はのろのろと振り返った。
 そしてそこに立っている男に、うんざりと顔をしかめる。
「クレオ。その呼び方はやめてくれ」
「……しかし」
「今までリュージと呼んでいたのだろう。だったら、そうすればいい」
「……すみません」
 その短い一言に、僕ははっと我に返った。
「いや、今のは僕が悪かった。すまない、忘れてくれ」
 するとクレオは、ますます居づらそうな顔になる。
 最近はいつもこんな風だ。
 別に、彼を困らせるつもりはないのだ。けれども結果的に、僕は彼を傷つけている。
 もどかしい。
「それで用件だが、クレオ」
「はい」
「実は兄上……いや、陛下と話がしたいんだ。付き合って欲しい」



 控えの間で陛下を待つ。
 あらかじめ約束を取りつけてはいたものの、やはりリュージという立場では、すぐに会う、という訳にはいかないらしい。
 そんな対応に、僕は苛立つ。
 相手が誰であろうと約束は約束だ、守るべきだと思う。
(リュージなら、この対応を見て、どう思うんだろう)
 ふとそんな風に思う。
 僕の記憶にあるリュージの世界には、身分差なんてない。けれどもその反面、やはり立場とか年齢で、色々な違いを持っていて、実のところ、そう僕等の世界と変わりはないらしい。
 だからきっと。
 リュージなら、この状況を仕方ない、と肩をすくめて終わらせるのかもしれなかった。

 彼は理不尽なことに対して、酷く鈍感なのだ。
 僕等のように、正面切ってぶつかったりはしない。仕方のないこと、と割り切って、上手くやり過ごそうとする。
 彼の世界では世渡りと呼ばれているその術を、リュージは忠実に実践している。
 多分、僕には絶対に出来ない。
「大丈夫ですか、フリージオ様」
 呼ばれて顔を上げると、クレオがこちらを覗きこんでいた。
 その目には、真剣にこちらを案じる色がある。おそらく、ふさぎ込むような表情をしている僕を見て、不安になったのだろう。このところ、情緒不安定な主君を心配しているのかもしれない。
 だが、そんなクレオの反応が、余計に僕を苛立たせる。
 もちろん、八つあたりだと分かっているのだ。クレオに落ち度などない。
 思わずため息が洩れた。
「この世界は、どうして思うようにはならないんだろうね」
「……フリージオ様」
「グローシアは、あんな風に見えて、本当に兄上を愛していたんだよ。でも、兄上は別の人を愛していた。だけど兄上もまた、本当に好きな人とは結ばれない運命にあって」
 そこで僕は一度、言葉を切った。
 ふいにシェスタのことが思い出され、そっと目を閉じる。
「なんでだろうね。どうしてこんなに、思う通りにならないんだろう」
 エルネスト兄様の気持ちは、誰にも分からない。
 けれど僕に関していえば、シェスタのことが嫌いではないのだ。むしろ、特別な女性といってもいい。
 だからこそ、ためらう。彼女の想いを知れば知るほどに、迷う。
 その手を取って良いものかどうか、と。
 横目で騎士を見上げ、僕は当然のように言い切った。
「クレオは、エルネスト兄様が好きだったんでしょう」
 彼は面食らったような顔をし、そして小声ではい、と一言だけ返した。
「そうか……」
 天井を仰いだ僕の耳に、重々しく扉が開く音が聞こえた。視線を降ろした先に、僕はかつての兄の、そして今は――
「……陛下」
 そう呼ぶしかない方の姿を見た。



 陛下は初め、なかなか語ろうとはしなかった。
 エルネスト兄様の名誉を守る為。それも確かにあったろう。だが、真実守りたかったのは、死者の名誉ではなく、遺された人々の思いだ。
 けれども、僕は再びその傷をこじ開けた。
 そして一度あふれ出た思いは、とめどなく陛下の口からこぼれていく。
「許されるはずもない。たとえ法にふれたとしても、王族が婚約者以外の者を愛してしまう、それだけならば同情もされたろう、理解も得られたろう。だが、あれはいかん」
 陛下の淡々とした言葉が、ひどく胸に沁みた。
 陛下にとって、エルネスト兄上はとても心強い味方であり、最愛の弟だった。その幸せを願い、その苦悩をまるで自分のことのように愁うほどに。
 だが、陛下は知っている。
 想いが叶えられないことが苦しみであり、悲しみであったとしても、それを取り去ることでは決して幸福には繋がらない。
 そんな破滅的な想いがあるのだ。
 陛下のため息が、大きく部屋に響き渡った。
「せめてもの救いは、あいつにそれを抑えるだけの理性があったことだろうな」
 でもね、と小さく胸の内で呟く。
 たとえ大切の意味が違っても、決して彼の望むような関係は築けなかったとしても、僕が彼に向ける感情はけっして揺らがない。
 だから、僕は陛下に宣言する。
「僕は、エルネスト兄様が大好きでした。弟として、今でも尊敬しています」
 そうか、と頷いたその人は、声で泣き、そして目でそっと優しく微笑みかけていた。

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