ふと浮かんだ記憶があった。

 僕のものではない。フリージオ王子の記憶だ。
 まだクレオと会って間もない頃のこと。その頃のクレオは今よりも表情は硬く、口調は今よりも少し幼かった。
 そんな彼に、フリージオ王子が何気なく聞いたこと。
「どうして君は、騎士になろうと思ったの」
 彼の答えは簡潔だった。
 ――後悔したくないから。
 その一言に、僕だったら戸惑ったろう。けれどもフリージオ王子は正確にその意を汲んだようだ。わずかに苦笑いを浮かべる。
「最悪から逃れる為、か」
 はい、と頷いたクレオも、少し驚いているようだった。ためらいがちに頷くと、ぽつりぽつりと言葉を重ねていく。
「今、この場所で、最悪から逃れる為に何が出来るか。俺が騎士をやっている理由は、そういうことです」
「うん、確かにね。最善ではないかもしれない、でも最悪は避けたい。君のしている戦いというのは、つまりはそういうことだろう」
 僕とは、違う戦い方だけど。
 フリージオ王子はそう笑い、そしてクレオへと手を伸ばした。
「人間、誰しも最善を望む。それはとても大切なことだ。でも、最悪を避けようとすることも、それと同じくらい大切なこと」
 王子よりもずっと高い位置にある頭。指が触れそうで触れない距離にいる少年騎士は、顔色一つ変えていなかったけれど、それでも何故かその瞳を見た瞬間、僕は思ったのだ。
 クレオでも泣くのだ、と。
「君は、ずっとこの国を見守ってあげて。いつか襲いくる最悪を避ける為に」
 そんな騎士に触れぬまま、王子はそっと言葉をかける。
「僕は最善を掴むから」
 それを聞いたクレオが、わずかに瞠目し、そして表情を崩して笑う。
「――はい」
 そう微笑んだ、クレオの心は誰にも分からない。ひょっとしたら、本人でさえ分かっていないのかもしれない。
 それでも僕は確信する。
 この場面が、クレオの全てなのだと。



 ふいに、意識が覚醒する。
 傍らに倒れている、見覚えのない青年の姿を、僕は冷静に見下ろし、そして不思議なくらい醒めた目で場を見守っていた。
 ぽたり、と土に吸い込まれていく、赤い雫。
「お前も、相変わらず愚かな男だな」
 不敵な笑みを浮かべた唇の端から、ぽたりとまた足元に落ちていく。
「忘却の中で、ただ運命を受け入れる。そういう生き方もあったろうに」
 赤い水たまりは、その面積を広げていく。男が、彼の腕にすがるように身をもたせかけた、それを好きなようにさせたまま、騎士はそっと目を伏せた。
「出会わなければ良かったと、思ったこともあった」
 その一言に、彼という人間が背負ってきた、重みが詰まっている。
 ふっと微笑を浮かべると、男は儚げな目のまま、こくりと頷いて言った。
「俺も、お前達に、会えて良かったと、思う」
 霧が晴れるように散っていく、その幻影を見つめながら、僕は改めて自分の姿を確かめてみた。そして、こちらを振り返ったクレオの表情に、その答えを映す。
「リュージ……なのか」
 もし記憶というのが、死んでも残るものだとしたら、僕はその時のクレオの表情をはっきりと遺すことが出来たろう。
 傷ついているのだ、そう分かった。
 だから僕は、笑って首を横に振る。
「違う。これはリオデラートだ」
「だが……」
「全部、終わったんだ。だから」
 もう、いい。
 そう言った僕に、クレオは眉をぴくりと上げた。そして強い口調で言う。
「貴方のことだぞ。俺のことでも、ましてや他の誰のことでもないんだ。そんな簡単に、もういいなんて言わないでくれ!」
 僕は、何も言えなかった。
 けれども、動じることもなかった。
 分かっている。本当ならば、もう少し未練を見せるべきなのだろう。僕はけっして死にたくはないのだし、この国に尽くす義理もない。
 リオデラートが言った通りなのだ。
 きっと僕が喜んでこの運命を受け入れれば、この目の前で必死の形相を浮かべる騎士は。
「リュージ」
 その声に、ようやく僕は彼の心を見たような気がして、思わず苦笑していた。
(クレオ)
 呼んでやりたい。本名も、愛称も、その長ったらしいフルネームを含めてでもいい。かつて彼が、迷わず僕の名を呼んでくれた時のように、僕も彼の名を呼びたい。
 たった数言でしかないその言葉に、多分、今の思い全てを込められる。
 けれども僕が彼に語ったのは。
「……夢を、見たんだ」
 もっと長ったらしくて、つまらなくて、けれども。
 多分、僕がクレオに残してやれる、最初で最後のことなのだ。



 最後に見られた夢は、フリージオ王子の夢じゃなくてさ。
 リュージとしての夢だったんだ。
 それがまた、とんでもなくご都合主義で、恐ろしくおめでたい夢だ。

 夢の中で、妹に会ったよ。
 あいつさ、今までに見たことがないくらい、恐い顔してた。
 でも、なんだか今にも壊れそうで、必死に思いつめた顔をしてて。
 心配になって、そっと肩を叩いたら。

 あいつ、あり得ないくらい驚いてるんだよ。
 振り返って俺を見た途端、目を丸くして、しばらく声が出ないみたいだった。
「どうして……お兄ちゃん」
 どうしてって言われてもな。反応に困るだろ。
 だから俺、黙って見てた。

 そうしたら、あいつ、言うんだよ。
「どうして止めるのよ、お兄ちゃん」
「止める……?」
「だってどうせ、私は未成年だから、大した刑にならないんだもん。あの女と同じにね。だったら、私があの女を」
 妹が何を言い出したのか、最初は良くわからなかったよ。
「お兄ちゃん、このままじゃ殺され損じゃない!」
 ……俺、すぐには答えられなかったよ。
 ああ、クレオにも分からないかもしれないな。
 俺の住んでいた世界では、子供が罪を犯した場合、大人の罰則よりも大分軽いものになるんだ。子供の場合、罰を与えるよりも更生を考えるんだな。
 つまり俺を殺した相手は、未成年というだけで、普通の殺人罪よりもずっと軽い罰しか受けないってことなんだけどな。
 なんか俺の命って普通より軽いのかよ、とか、色々下らないこと考えてた。
 でもな、妹のそれを聞いて、ちょっと考えを変えたんだ。

 だから、妹に言ったんだ。
「損って何。俺、何か損してる? ちょっとでも泣いてくれる人がいて、俺の為に怒ってくれる人がいて。それって、超ラッキーなことじゃん」
 そう笑っておいた。
 だって俺、それ以外に出来ることなかったんだ。

 俺はな、お前以上に、優しくない人間だと思うよ。
 聖人でもなければ、天使にもなれない、ごくごく普通の高校生だ。多分、あの女が地獄に落ちてくれたら、清々するだろうという自覚はある。
 恨んでるよ。心の底から、な。
 それでもな、もう一つの気持ちの方が大きいんだ。
「お前が手錠かけられるところを見る方が、よっぽど不幸な気分になるね」
 そう笑ってやること。そして、最期の一言を遺してやること。
 死んだ僕がこの子にしてやれることはもう、こんなことしかないんだ。
「だから、もう忘れていい」
 それが、僕に妹に出来る、精一杯のことだった。

 そんな気持ちを抱えて笑う、そんな夢だった。

 ようやく分かった気がするんだ。
 あんな顔して、泣いている妹を慰めてやることも、その考えを叱ることも、同調してやることも、何もかも出来なくなる。
 目の前のこの子と、同じ時を共有することは二度とない。
 それが死ぬってことなんだ、って。

 なぁ、クレオ。
 優しいということは、ひどく残酷なことだと思うよ。
 消えなくてはならない僕にとって、一時の優しさは何にもならなかった。むしろ、いずれ手放すことを知っているだけ、未練が残る。
 だからリオデラートは、君と僕を会わせたがらなかったし、君を何度も叱責しただろう。

 けれど、そうじゃないんだろうな。
 クレオは僕達が思うよりもずっと厳しく、そして強い覚悟を抱いていたんだろう。

 ずっと最善を望んでいる人だと思っていた。
 君の呑気な目は、いつでも最高を見上げていて、綺麗なことばかりを見ていると思ってた。
 でも違った。
 だから僕は思うんだ。

 たとえ君の為に、と押しつけていったエゴでも、きっとそれを受けとめて、傷にすることなく生きていけるのだろう。
 世界の為に、僕が犠牲になったとしても、この世界で君が幸せならばそれでいい、なんて重たい世迷いごとを遺していったとしても、君はけっして折れないのだろう。
 だから、そんな君の優しさに甘えて、一つだけきいてほしいことがある。
 僕が最後に遺していく、身勝手な願いだ。

 忘れて欲しい、とは言えない。
 だけど願うなら。
 クレオの中にある僕の記憶は、少しでも優しく、温かい場所に入れてやって欲しい。
 可哀想な少年ではなく、共に旅をした、異世界の少年という位置に置いてやって欲しい。

 笑って、クレオにそう言ってやること。
 それが僕に出来る、唯一のことだった。



 目を覚ました瞬間、世界は水の中に沈んでいるように見えた。
 手の甲で目を覆う世界の水を拭い去り、そして僕はぽつりと呟く。
「……リュージ」
 置き上がった先に見える、二つの影はおそらく従者達だろう。揃って、喜びと悲しみをない交ぜにしたような表情を浮かべている。
 けれども、その喜びの部分が無性に僕を苛立たせた。
「フリージオ様」
 足元に額づく騎士に、僕はそっとささやいた。
「ごめんなさい」
 クレオは無言だった。その表情に、わずかな陰りはあるが、少なくとも僕の前で泣き崩れることもなければ、綻びを見せることもない。
 リオデラートも同じだ。けれども彼に到っては、自分の内に取り込んだ時の余波だろう。ぼろぼろと零れる涙を抑えることは出来ずにいる。
 多分、僕には彼の気持ちが分かる。
 身を投げ出してもいい、そう思っていた相手から、守ろうとした腕を振り解かれる。それもまた辛いものだが、その相手が、いいんだと、要らないのだ、と笑って、運命を受け入れたとしたら。
 それはやはり、強い悲しみと痛みを伴うのだ。
 ――つまり。
 これが君にしか出来ないことだったんだよ、リュージ。
 そう呟いた言葉は、かける相手を失ったまま、ただ空虚に響いた。

Back//List//Next