「リオン!」
 あまりの衝撃に、たまらずその場に膝を突いた。こみ上げる吐き気を堪えるだけで、涙がぼろぼろ零れてくる。
 平静を装う、余裕さえない。
 見覚えのあるつま先が視界に入ってきた。それはかつんと音を立てて、一歩こちらに踏み込んでくる。
 顔はあげられなかった。そんな私の背に、懐かしい声が降ってくる。
「珍しいな。お前が、赤の他人の為にそんな無茶をするとは」
「……私は気まぐれなんですよ」
 そう返すのがやっとだった。
 答えられなかった理由には、身体的なものもあった。だが、おそらく私自身、彼に返せるような答えを持っていなかった、という点が大きいだろう。
 この術の危険性については、良く承知していた。
 そんな馬鹿なこと、と言ったのは自分だ。どれだけ馬鹿げたことなのか、誰に言われるまでもなく分かっている。
 それでも使ってしまったのは、何故なのか。
(――理由は、明白だけどな)
 これだけは言える。
 多分、自分は今、苦笑いをしている。

 おかしなものだと思う。
 エルネスト様が彼を見る眼差し。そして、あの兄様という呼びかけ。
 断言できた。
 あれはまさしく、私の主君だ、と。

 けれど私の胸に、満足感はなかった。
 あれほど待ち侘びた主君の再来に、全く心を動かされなかったとは言わない。自分にとって、やはりフリージオ様は大切な主君だ。未だに、まだ自分は彼の死を受け入れてはいない。
 それでも、後ろにいたクレオを思うと、私は喜ぶことが出来なかったのだ。
 いや、それも欺瞞かもしれない。
 認めよう。
 エルネスト王子の傍らに立つ青年の姿に、私は戸惑いを覚えた。
 彼がリュージではないことが、たまらなく悲しかったのだ。



 水竜の悲痛な声が響いた。顔を上げると、抱えていたリュージを安全なところへ移したクレオが、剣の柄に手をかけるところだ。
「駄目だ!」
 私の声に、クレオの動きが止まる。
「無事か、リオン!」
 大丈夫なものか。
 そう返してやりたいのを堪え、私は何とか立ちあがる。
「クレオ。貴方は戦ってはいけない」
「何故そう思う、リオン?」
 軽く笑いを含んだエルネスト様の声に、懐かしさがこみ上げてくる。
 そんな感慨を振りきり、私は指輪をはめた方の手を上げた。
「誓約において、魔女よ――」
 詠唱を許さぬ速度で踏み込んでくるエルネスト王子の手には、銀のタガーがあった。
 間に合わない。
 誰もがそう思ったろう。けれども。

 私の目の前で、金属のはぜ割れる音がした。鼻先が触れる距離に、王子がいる。
 その懐に手刀を叩き込もうとしたが、それは彼の腕を浅くかすめるに留まった。けれども、大きく間合いを取った彼の顔には、若干の焦りがある。
「どういう、ことだ……」
 戸惑うのも無理はない。
 私の攻撃手段は、全て魔法に頼っている。それが一番、効果的だ。多少の心得はあるものの、体術に関してはまるで自信がない。
 その私が、こういう手段を使うとは思わなかったのだろう。
 だが、それは一瞬だった。すぐに、不敵な表情へと戻る。
「なるほどな。自分を強化する補助魔法とは面白い。魔法史上、類を見ないぞ。さすがだな、リオン」
「その称賛は、リュージに向けられるものですね。私自身の発想じゃない」
「相変わらず、嫌味な男だ。夢を見るだけなら、誰にでも出来るぞ。だが、実際に使えるものにするには、技量が要る」
 さらりと言ってのけ、彼は目を細める。
「技量はある、だが成し遂げるだけの志がない。それがお前という魔法使いの限界」
 エルネスト王子の、刺すような視線が問うてくる。
 答える義務はなかった。けれども、私はあえて言葉を紡ぐ。
「今まで俺は、ずっと逃げてきた」
 ずるいことだと分かっていた。
 フリージオ王子を見捨てたあの時から、私はずっと沈黙を続けてきたのだ。そうすることが懺悔だと信じて。
 それならば、ずっと口を開くべきではないのかもしれない。
 だが私は、あえて真実を打ち明ける。
「核を魔法で倒すことは出来ない。だから、前線に出られない。そういう口実で、ずっとずっと目を背けてきたんだ」
 何から、と尋ねたのはクレオだ。
 静かなその声に怒りはない。ただ、こちらを案じる色だけがある。そしてそれは、エルネスト王子の目にも表れていた。
 ため息が洩れた。
 フリージオ様があの術を使われる前日。最後に話したあの夜、言ったことを思い出す。
(きっと僕のこの選択は、君達にも残酷な選択を強いると思う)
 フリージオ様から全てを聞いたのは、私だけだった。
 どうしてクレオにではなく、私に打ち明けていったのか、今ならば良く分かるのだ。
 あの人が、どれだけこの未来を予期していたのか分からない。けれど、予感のようなものはあったのだろう。
 だから言ってくれた。
 どんな時も、私達の幸せを願っていると笑ってくれた。
 それならば私は、応えるべきだ。
 だから私は真実を認める。それをクレオに伝える。
 もう逃げない。
 クレオを傷つけたくない、という口実から。仕方なかった、という諦めから。
「この呪いの元凶は――」
 大きく息を吸い、私はずっと隠していた、その事実を口にする。
「グローリア様と、フリージオ様の使われた、召喚術にあるという真実から」
 クレオの眉が大きくはねあがった。そんな変化に、私はあわてて、言葉を付け加える。
「フリージオ王子は、呪いをかけようと思ってかけたんじゃない。そういう形でしか、あの事態を止めることが出来なかっただけだ」
 言った後から、自己嫌悪に襲われた。
 確かにそうだ。だが、それを口にして庇うのは、卑怯なことだったかもしれない。
 そんなことを思いながら、ちらりとクレオを見、私は思い違いに気づいた。
 クレオの表情は、確かに厳しいものだった。けれども達観したその横顔からは、動揺もエルネスト様のような悲愴さすら見られない。
 その代わり、小声でぽつりと呟いた。
「あの方なら、そうするだろうな」
 たった一言だった。けれど私は、言葉にならぬ多くのものを見た。
 クレオは知っているのだ。
 強く、厳しい御方だった。たとえ呪いという形になっても、犠牲を払うことになっても、最善を尽くす為にためらわない。そういう方だった。
 そうだったな、と苦笑いする。
 そういう御方だったからこそ、私達は彼の元に集ったのだから。

 エルネスト様が、肩をすくめ、大きく両手を広げた。その動作に、私とクレオは軽く身構える。だがエルネスト様は、小さく笑っただけだった。
「リオデラート」
 本名で呼ばれたことに、軽く緊張する。
「一つずつ、はっきりさせよう。呪いとは、死者の無念を核にして生成されるものだ。ここまでは良いな?」
「……はい」
「この呪いの元は、白の魔女が召喚されたことで引き起こされている。それが今までの見解だった。少なくとも俺が知る限りはな」
「エルネスト様?」
 何故、この方がそれを知っているのだ。
 あの事件で命を落とされたエルネスト様が何故。
 疑問が顔に出たのだろう。エルネスト様は、生前そのままのどこか人を食ったような、それでいて、遠くから見守るような目でこちらを見返す。
 そんな顔をしないで欲しい。
 こちらの願いは届かぬまま、彼は話し続ける。
「だが、実際は違う。呪いは、二つの魔女が作り上げたもの。一つは白の魔女。そしてもう一つは」
「フリージオ様が召喚された、黒の魔女」
 そうだ、と頷いて、フリージオ様は軽く指を折る。
「白の魔女は、正義の執行者。召喚された以上、過ちを糾弾する為に動く。その結果が、三つの呪い。理不尽に踏みにじられた、死者の無念を核とする」
「では、黒の魔女は……」
「黒の魔女は、安息を司るもの。召喚された彼女は、痛みを覆い隠そうとする。その結果が、残り三つの呪い」
「一つの願いは死を消した。また別の願いは時を止めた。そして、ここにいる貴方は……」
 ふと、クレオの様子がおかしいのに気づいた。
「クレオ?」
 伏せられた目は、ここを見てはいなかった。ほとんど動かぬ唇から、するりと言葉だけが洩れた。
「貴方は、記憶を消すことで、痛みから守ろうとした」
 誰を、と問おうとした時、思い出したことがあった。
 いつしか忘れていた、忘れようと目をそらし続けていたことが、ふいに鮮やかに広がる。
「あ――」
 その瞬間、全てがはっきりと繋がるのが分かった。

 薄々と感じていたこと。そして確信が持てなかったこと、全てを通して。

 呆ける私の前で、彼等は剣を構える。
「お前は、フリージオを守りきれなかったのだな」
「そうだな」
「開き直るか」
「その責めはいくらでも受けるさ。だが、こればかりは譲れんな」
「ふん……迷いもしないのだな、お前は」
「お前も良く知っているだろう。俺がどれだけ、薄情かということはな」
 クレオの口元に、冷やかな笑みが浮かぶ。挑発するような棘をこめた笑み。
 この笑みを私は知っている。私だけが知る顔だ。
「決着をつけよう――エルネスト」
 その宣言は、冷徹に響いた。



 知っていた。だが、知らぬ振りをしていた。
 ずるかったのだ。
 当人達の問題と匙を投げて、関わることなく背を向けてきた。その果てに訪れた破滅にさえ、それが本人の意思ならば、と諦めてきた。
 知っていたくせに、いつでも私は傍観者なのだ。

 激しく打ち合う二人の間に、私が割り入る隙はなかった。
 今のクレオは、記憶を持った上で覚悟を決めている。そしてエルネスト様もおそらくは、この対決こそを望んでいたのだろう。
 二人の剣には、迷いがない。
(どうだろうか)
 そう自問する。
 それでもエルネスト様には、若干の迷いがある。それはクレオにも言えることだ。

 大分、この身体に馴染みつつあることに、やや焦りを覚えながらも、私はリュージの魂を抱えたまま、対決を見守ることにした。
 正直、リュージには見せたくなかったのだ。
 彼は薄々気づいているかもしれない。けれども、知らせたくなかった。それはクレオも同じだと思う。
 昔のこととはいえ、この二人の関係を見せたくはない。

 黒の魔女は、痛みを包み込む存在。
 忘却という封印を施して、心の、過去の痛みから人々を守る。それが黒の魔女の本質だ。
 だが、クレオのような人間は、黒の魔女を必要としない。
 もちろん、クレオもまた傷を負っている。フリージオ様の死もまた、クレオの痛みであることには変わりない。
 だがフリージオ様は、この国を守る騎士としてのクレオを照らし続ける存在でもあるのだ。
 彼を失った事実は、寂しさや悲しみをもたらすけれど、ただ辛いだけのものではない。その別れまでをも幸福として、大切に持ち続けていけるような存在。
 クレオという人間は、痛みを力に変えていける強さを持った男だった。
 だから、フリージオ様との記憶は消えない。黒の魔女に頼らなくても、彼は毅然と前を向いて生きていける。
 けれども、そんなクレオにもわずかな隙があった。
 迷わない、後悔などしない。
 そうきっぱりと断言出来るクレオにも、どうにもならない痛みがある。手にする幸福が大きい分、どうにも埋めようのない喪失感を経る、そんな想い。
 かつて、それを与えたのは、エルネスト様だった。
 けっして報われる事のない恋と知りながら、クレオは想いを貫いた。エルネスト様から拒絶されるまで、いや拒絶された後さえ、クレオは彼への想いを偽ることはなかった。
 その頃を思えば、クレオもやはり年をとったのだろう。
 あの頑固な男の精神が、黒の魔女の呪いを許してしまうほど追いつめられていたことに、気づいていた人間が果たしていただろうか。
 おそらく、ほとんどいないはずだ。
 想いを口にすることなく、沈黙を守ってきた。誰にも、その思いの片鱗さえ見せずに、ずっと傍らで任務を果たしてきたのだ。
 それはどれだけの痛みだったろう。

 ふいに剣戟がやんだ。
 私は決着を見届け、ほうと息をつく。
(リュージ)
 唐突に、その名を呼びたくなった。

 私の内に眠る、儚い魂のことを思った。

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