――エルネスト様。
ふいにその名が浮かんだ。覚えているのではない、リオンがちらりと洩らした言葉からだ。
(あの方も高いところが駄目で)
あの時、水竜が鳴いた。
直後、リュージが倒れたので、注意を喚起する為かと思ったが、おそらくそうではない。
あれは彼が懐き、そして彼にあれほど哀しげな顔をさせる相手の名を訴えていたのだ。だが、俺はすぐには気づかなかった。
竜騎士失格だな。
小さく自嘲した瞬間、ふとひらめいたことがあった。
「ついてきてくれ、リオン!」
「ついて来いって……ちょ、ちょっと!」
突然駆け出した俺の後を、やや遅れてついてくるリオン。予想外の反応にも関わらず、遅れを取らないのはさすがだ。
「聞いているのか! 説明しろ、クレオ!」
「ここの調査に来た時の記憶だ。ほとんどは繋がっている。だが、一ヵ所だけ、空白の時間があったことを思い出した」
「なに?」
「ある場所に行ったのは間違いない。だから」
その記憶がないということは、そこに何かがあるのではないか。
そう説明すると、リオンはなるほどと頷いた。
「それはどこだ」
「実技棟と購買部の間にある中庭だな」
「職員棟の方じゃなくてか?」
「ああ、あっちじゃない」
走りながらの会話は、相手がリオンだから可能なことだろう。文官で魔法使いというリオンは、その内向的な印象とは裏腹に、健脚の持ち主だ。
もっとも、力はからっきしで、逃げ足だけが取り柄と言っても良かったが。
(そう揶揄したのは――)
思い出せない。だが、記憶にないからこそ、それが誰なのか分かる。
この逆説を使うことで、手がかりへと行きつけるかもしれない。
その場所に辿り付くと、リオンが小さく息を呑んだのが分かった。
「ああ……そうか。ここは、エルネスト様の」
やはりか。
苦い思いが胸を満たす。
「なぁ、リオン」
「ん?」
「エルネスト様というのは、第二王子のことだな」
「そうだよ。何で、今更そんなこと……」
呆れたような顔が、みるみる内に蒼白に変わる。
「まさかお前、エルネスト様のことまで」
頷くまでもなく、リオンは答えを知っていたようだった。わずかな間があってから、彼は大きく空を振り仰ぐ。
「リュージを起こそう」
その一言を発するまでの間に、何を思ったのかは分からない。だが、リオンの表情には、真剣という一言で片付けるには余りある、何かがあった。
何故、こんな顔をするのだろう。
今は問わず、リュージの身体を降ろすと、俺はリオンの術が完成するのを待った。
ふいに虚脱感が襲ってくる。
「終わった」
ふとリオンが気を緩め、俺の意識がそれた途端。
「……なにっ!」
一瞬、現状把握が遅れた。足元が揺れた、と気づいた直後、ぼこりと地面に大穴が空く。
「リュージ!」
引きこまれていく彼の身体はなんとか掴んだものの、自分の足元も滑り出していた。留めようにも、手がかかるようなものもない。
落ちるだろうな、と妙に冷静な自分が判断を下す。
「クレオッ!」
リオンの声を遠くに聞きながら、俺はかばうように彼を抱え込んでいた。
今度は誰の記憶なのか。
また切り替わった視点に、僕は小さな苛立ちを覚える。
丘の上から、町を見下ろすイメージ。この風景は僕も見覚えがあった。
人の匂いがするせいか、かなり印象は違う。だが、青と白と緑で構成される美しい都市の形は、ファーミリオンのものだ。
ここへ来る時に、丘から臨んだあの姿。
少しずつだが、今、自分が置かれている状況は理解しつつあった。
呪いによって取り出された記憶は、行き場もなくこの地をさ迷っている。その記憶が一気に流れ込んできたら、どうなるのか。
一時的にでも、精神を閉ざして、侵食を拒むしかない。
召喚術師達が倒れた理由は、それなのだろう。
これだけの情報量を処理出来るほど、人間の精神は強固に出来ていないのだ。
だが、それならば僕が正気を保っていられるのは、何故だろうか。
一番大きな要因は、リオンの施してくれた術だろう。それが、僕を守ってくれている。しかし、もう一つだけ、わずかだがある要素が影響しているような気がしてならない。
「また、ここにいたのか」
声を聞いた途端、心音がはね上がる。
視点の主が振り返らないので、声が誰のものなのか、捉えることは出来ない。そのままの姿勢で、視点の主は声に返事をする。
「ここは好きだ。この町が一目で見渡せる」
その声を聞いた瞬間、この視点が誰のものなのか、この記憶が誰のものなのかを悟る。
――クレオだ。
気まずさのあまり、目を閉じたい衝動にかられる。
けれどもクレオは目を閉じてはくれなかったし、後ろの人物も話を止める気配がなかった。とん、と背中に誰かの頭が当てられる感触。
「谷を思い出していたのか」
「何故、そう思う」
「お前はこういうところに来ると、必ずどこか遠くを見ているからな」
違う、そうじゃない。
振り返った先に、誰かがいる。その誰かの顔は良く分からない。だが、クレオの取った行動に、相手の名を知らぬまま、その位置付けだけをおぼろげに見せつけられる。
腕に引き寄せる。そのまま、抱きとめる。
「クレオ」
「遠くを見ているのは、お前も同じだろう」
お前はいつも、王都を重ねている。
そう呟いたクレオに、僕は焦燥を見、そして果てない憧憬を聞く。
「お前のまなざしはいつも、この国へと注がれているのだな」
「そうなのかね」
「ああ」
「お前がそういうのなら、そうなのかもな」
なだめるように、クレオの背を叩いたその腕が、ふわりと解けた瞬間。
世界ががらりと切り替わる。
とっさにフリージオ王子を突き飛ばす。彼が安全な場所へと逃れたのを確認してから、振り返る。
「王子!」
土砂と瓦礫の降る中に、その人がいた。踏み込もうとしたその時、視界に映るその人は、大きくかぶりを振る。
不思議な光景だった。
一つ一つの動きが、奇妙にのんびりと映る。切迫した状況に、その人は穏やかに微笑んで、真っ直ぐに彼を見据えた。
かつてあったような情熱はないかもしれない。
それでも尚、大切なのだと、その人が好きなのだと、無言で語るその瞳。
彼はそっと唇を開き、言った。
「ありがとう、クレオ」
フリージオ王子の下についた時から、彼は二度とそう呼ぶことはなかった。あれからずっと、クレヴァリアとしか呼ばなかった。それが、彼なりのけじめだった。
無我夢中で伸ばした腕は、落ちてきた城壁に阻まれる。
(エルネスト……ッ!)
一介の騎士には、許されるはずもない呼びかけ。
声には出来ぬ叫びは、いつまでも尾を引くように、頭の中に鳴り響いていた。
「ん……?」
暗くて、周りが良く見えない。上から光が差し込んではいるが、ここまでは届いていない。依然として、闇のままだ。
「あ、れ?」
僕は何をしていたんだろうか。
どうも記憶が曖昧だ。途中で倒れたのは間違いないが、そこからの記憶がどうも不自然で、夢でも見ていたような気分になる。
それにしても、ここはどこなんだ。
意識がはっきりしてくると、背中に感じる温もりが不自然に感じられてきた。覚醒してくるにつれ、自分が人を下敷きにしている状況に気づく。
まずい、と何とか身体を起こそうとするが、上手く動かない。寝起きの気だるさだろうが、前よりもひどいような気がする。
「怪我はないか、リュージ」
間近で聞こえた声に、僕は即座に跳ね起きた。
「ク、クレオか!」
声が不自然に裏返った。まずいな、とは思ったが、出てしまったものは仕方がない。
しかし、何故僕はクレオを下敷きにして、こんなところにいるのだ。そもそも、ここはどこだ。
クレオに聞けば良いのだが、何となく口にしづらい。
「……リュージ?」
「あ、ああ、怪我、怪我、な。別にどこも痛くない、けど……」
不審そうなクレオに、訳の分からぬ返事をしていた僕は、手のぬめりに気づいた。なんだと目の位置まで掲げたその時、かすかな鉄の匂いに気づく。
「クレオ。お前、血が」
彼は沈黙していたが、かなりの痛手だろう。良く耳をそばだてると、彼の呼吸が乱れているのが分かる。
「待ってろ、今、傷をふさぐから」
「やめてくれ」
きっぱりとした拒否は、いつになく威圧感があった。怯む僕に、やや語調を和らげて言い直す。
「俺は平気だから、使わなくて良い」
その声音に、僕はふと何かを悟った気がした。
――ああ、そうか。
前に、リオデラートとクレオの会話を盗み聞きしたことがあった。
最初の内は、確かにリオデラートしか知らなかったのだろう。だが、あの時のクレオは、既にこのことを知っていたような感じがある。
最初に召喚術を使った時から、クレオは本能的にそれを察していたのかもしれない。
たとえ記憶をなくしても、僕とフリージオ王子を見分けられるクレオだ。フリージオ王子を重ねたのではない。召喚術を使う度、本当に混じりつつあることに気づいたのだろう。
ならば、召喚術を使うな、と言ったのは。
「リュージ」
強い制止を無視して、僕は術を編む。
案じてくれたのだ、彼は。フリージオ王子に忠誠を誓う彼が、少しでも僕を気遣ってくれた。それだけで充分だ。
だから、もう。
クレオの手が僕の手を封じた。だが、もう術は完成している。あとは声にするだけ。
呼びかけようとした瞬間、ぐいと強い力で引き寄せられる。
「ク……」
音にならなければ、術は失敗する。
紡ごうとした言葉が、直接的な手段で封じられてしまえば、それまでだ。たとえば、唇を押さえてしまえば、声にはならない訳だが。
その理論は分かる。分かるが、この状況はどういうことなのか。
近すぎる顔。どこの部位なのかと聞きたくなるほど柔らかい感触は、どう考えても手ではなく。
わずかな間、呆けた後。
思わず、力の限り、突き飛ばしていた。
「……ざけんな、お前っ!」
瞬間、相手が怪我人だということも失念していた。だが、謝る気にもなれない。
大体、こんな元気があるのなら、上等だ。望み通り、放っておいてやる。
「な、んで……」
駄目だ、頭が沸騰し過ぎて、息が整わない。泣き出さないのが不思議なくらいの取り乱しようだ。
別に初めてではない。けれども、相手が男ともなれば、また別の心の準備というものが、ああもう、そんなものあるはずがない。とにかくショックだろ、普通に。
だって、僕のいた場所では。
「僕の世界じゃ、男同士でそんなの有り得ないんだ」
最低の逃げ口上が飛び出した。
分かってる。こんなことが言いたいんじゃない。
男同士で何が悪いんだよ。今なら、きちんとそう言えると分かってた。だけど。
「中身を分かってるだろ! いくら、身体は僕じゃないって言ったって……」
声が荒くなる。
分かってる、クレオは誰も重ねてはいない。重ねてはいないけれど、だとしたらこれはどういう意味で、どういうことなのか。
理解出来ない。したくない。
「そんな目で見られたら、気味が悪いんだよ!」
違う、そうじゃない。
気味が悪いのはクレオではなくて、自分の方だ。
相手は男だ。それも今まで、普通に接してきた相手だ。下心なんてなかった。
ただ誠実で、馬鹿で、そして強い奴だと思って、好感を持っていた。それだけだ。僕はそれだけだ。僕の気持ちは、そこで止まっているはずなんだ。
クレオに惹かれていたのは、僕じゃない。フリージオ王子の方だ。
――これが、器の記憶とやらに左右された感情ということか。
初めて、この身体に嫌悪感を持った。
「お前一人で好きになってりゃいいだろ。どうして、僕まで……」
「リュージ?」
「僕を巻き込むな……僕は、ただ」
ただ、どうしたいんだろう。
この身体は僕のものじゃないんだ。この気持ちも、僕のものじゃないんだ。なら、こうして悩んだりしているのは、僕じゃないのか。じゃあ、僕は誰だ。
こんなことを延々と考え続けて、誰のものともつかない生を引き伸ばすことに何の意味がある。
(だけど僕は)
ならば、死ぬことに意味があるのか。ありもしない、死の意味が欲しい為に、僕はフリージオ王子を助けるという大義にすがっているだけじゃないのか。
違う、クレオだ。クレオの為に、とも決めた。
でもクレオが王子の復活を望んでいないのなら、その意味はなくなるのか。いや、そうじゃない。フリージオ王子はここに必要な人だから――
「僕は、ただ」
言葉が続かない。
そんな僕の頭をぽんと撫ぜる手は。
「それがリュージの価値観なら、否定はしない」
だが、と付け加えた彼は、記憶がないくせに、いつも通りのクレオだった。
「貴方に合わせて変われるものと、変われないものがあることは、覚えていて欲しい」
戻る道を探す、と言って、立ちあがったクレオの足取りは確かだったけれど、それでもわずかによろけていたのを、僕は見て取っていた。
だが、僕が口にしたのは。
「炎よ」
魔法の光が辺りを照らす。
振り返ったクレオに、僕はきっぱりと言う。
「これが僕の決めたことなら、否定はしないのだろう」
確かに、僕は既に死んだ身かもしれない。この身体は僕のものではないのかもしれない。この魂も、消えてしまうのかもしれない。
だが、僕がここに召喚された事実は、変わらないのだ。あちらの世界の山崎隆二とは違う存在だったとしても、ここにいるのが僕だ。それ以上の答えなどない。
諦めた訳じゃない。誰の為でもない。望まれるからそうするんじゃない。
それでも僕は、この世界を取り戻したい。
クレオの記憶にあった、あの優しい眼差しをした人が見ていた、この世界を。
僕も一度、きちんと見てみたいと思うから。
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