何かが、ずれている気がしていた。
 最初は気づかなかった。けれど、彼と引き合わされてから、彼の記憶が抜け落ちていることを指摘されてから、少しずつかみ合わなくあっていく、記憶の歯車。
 あれは、調査に出る前日のことだ。
(自分を犠牲にしても、なんて殊勝なことを考えるのは、お前くらいだ)
 誰かと、言い争ったような気がする。
 いや、争ったのではない。こちらが一方的に、感情をぶつけただけだ。
 そんな風だから、余計に彼は頼ってくれないのだろう。それが分かっていても、もう限界だ。
(俺は、そんな事など考えない。どうしても譲れないことは、絶対に譲らない)
 どれだけ強い言葉をぶつけても、反応は返って来ない。
 いつもそうだ、いつもそればかりだ、貴方は。
 ――貴方とは、誰のことだ。
 鈍い痛みが、こめかみを締め付ける。自分の記憶なのに、その部分は妙に曖昧で、そんなことがあったのかすら危うい。
 現実感の薄い、夢。
 だが、あの少年の表情を見ていると、何故だかあの夢を思い出す。

 やはり、あれは現実にあったことなのだろう。
 良く思い出せない、あの激情を向けた相手はおそらく――



 激しく揺さぶる手に、途切れかけた意識を、無理に覚醒させる。
「クレオ!」
「リオン……か」
 のろのろと、体を動かした途端、目の奥で火花が散った。思わず、膝をついてしまう。
「どうだ! 身体に異常は?」
「……頼むから、もう少し声を小さくしてくれ。頭に響く」
「何を呑気なことを! こんな荒業、前例がないんだ。下手すると、お前もリュージも共倒れだぞ!」
 リオンが、わんわんと耳元で喚いている。いつもなら黙れと言い返すところだが、その不安はもっともなことだ。無駄口は叩かず、状況を説明することにする。
「身体には……異常ないが」
「身体には?」
「頭がぼうっとする。記憶がかき回されるみたいだ」
 かき回されるというのは大げさだが、気を張っていないと、意識が途切れそうだ。
「まぁ、無理もないな。一時的にとはいえ、身体に別の魂を押し込んでいるんだ。その程度で済んでいるなら、まだマシか」
 軽い口調で言ったリオンを恨めしく見上げたものの、反論はやめておいた。
 長い付き合いだ、口にせずともリオンの顔色は読めてしまう。
 今のリオンは真剣そのものだ。とてもじゃないが、こちらの言葉を聞けるような余裕は見えない。
 だから今は聞かず、俺は先へと進むことにした。

 旧友に頼み、水路から内部へと向かう。リュージの身体は、驚くほど軽く、彼を背負う形で竜に乗るのは、そう難しいことではなかった。
 水路は暗く、慣れている俺でも、少し厳しいものがある。後ろのリオンなど、ずっと沈黙したままだ。
 狙ったことではないとはいえ、リュージの魂を俺の身体に移したのは、正解だったかもしれない。さすがにこの体験をさせるのは可哀想だ。
 暗い水路を抜け、友が安全と判断した場所で下ろしてもらう。そこでようやく、一心地ついたリオンに、俺は何気ない口調で先ほどからの疑問を投げかけた。
「リオン」
「ん?」
「お前にとって、リュージはどういう存在だ」
 険のある視線が返ってきて、俺は改めて言い直した。
「深い意味はない。ただ、お前がそこまでムキになるのは、珍しいと思ったから」
 彼は答えなかった。それ以上の問いは諦めて、ひとまずはと前を向く。  互いの歩く速度に、あらためて、この地で過ごした日々を想う。あらかじめ、目星をつけておいた地点へ向かう、その足取りは迷いようがない。
 俺も、リオンも。
 同じような感傷が、影響したのだろうか。リオンが、唐突に、言葉を洩らした。
「思い出したんだ」
「何を」
「希代の術師なんて持て囃されてた、若い頃のこと」
 一見聞くと、ひどく嫌味に聞こえる台詞だが、リオンに関しては当てはまらない。彼にとって、賞賛の言葉は何の意味も持たない。むしろ、不快でしかない。
 そんなリオンの思いを、一目で見抜いた人がいた。
 彼は、リオンを遥かに上回る技量と、それだけの力を受け止めるだけの度量を持った人物だった。誰もが恐れる、強大な力を持ちながら、それに振り回されることのなかった御方。
「……だ」
 リオンの声に、回想が中断された。
「え?」
「力や肩書きだけで見られるのが苦痛だったんだ、僕は」
 そう俯いたリオンの思いは、少しだけ分かるような気がする。
 力という部分だけが評価されること。自分という人間への好意ではなく、肩書きと能力だけの評価で、私生活にまで入り込もうとする人間。
 打算でしか見られない人間への反発、上辺だけしか見えない人間への軽蔑、そして自分というものが理解されない苛立ち。
 初めて会った頃のリオンは、そんな過剰気味の自意識を持て余していた。
 だが、フリージオ様と出会ってからは、徐々に角が取れて、自分の能力と意識との間に、ある程度の距離を取るようになった。
 それは成長といえた。だが反面で、リオンという人間の致命的な弱点を増長させることにもなった。
「……お前の言いたいことは、分かってるよ」
「俺の?」
「僕は元々、他人に依存しやすい性格だ。だから僕は、フリージオ様に傾倒した。今でも、その性格は変わっちゃいない。ただ、なりを潜めただけだ」
 そうだろう、と言った声を、否定することが出来なかった。
 結局、リオンという人間を支えていたのは、フリージオ様の命令、それだけだったからだ。
 誰かを支え、誰かに支えられることでしか、力を発揮することが出来ない。リオンはそういう人間だった。それを知っていたからこそ、フリージオ様はリオンに主君という偶像を与え、その死後も尚、命令を与えていくことで、リオンの自己が壊れてしまわぬようにしたのだ。
 だからこそ、俺はリュージという人間が気にかかるのだろうか。
 そのリオンが、主君の死後初めて、自分から動いたこと。自分から守ろうと決めた、決めさせた、異世界の少年。
「今、お前が支えとしているのが、リュージということなのか?」
「どうだろうな。リュージを救う英雄になりたいなら、僕は何もしない方がいいに決まってるんだし」
「どういうことだ、それは」
「リュージという人間は、誰にも救えないよ」
「なに?」
 ずきり、とこめかみが軋みをあげた。ぱちりと爆ぜた記憶が、一瞬だけ何か像を結びそうになった。
 ――僕にはもう、ただ一つしか
 そう呟いたのは誰だった?
 あんなに強情な、弱音を聞いたことがないと、苦笑いしたことは覚えている。思わず手を伸ばしたことも、触れたことにも気づかずに目を閉じた人がいたことも、確かに記憶にはある。
 だが、どうしても、その顔が思い出せない。
 考え込んでいると、リオンが早口で付け足してくれる。
「命を救うことが、リュージを助けることになるかといったら、多分そうじゃない」
 だから、とリオンが付け足した言葉が、酷く印象的だった。
「これは僕のわがままなんだよ」
 きっぱりと言い放ったリオンには、強い覚悟が感じられた。
 皆は彼について、多くを語らなかった。ただ、リュージが嫌われてはいないこと、それなりに好感を持って迎えられていることは、何となく分かる。それでも、フリージオ様の死と同時にもたらされた来訪を、手放しに喜ぶことは出来ないのが、複雑なところだ。
 そんな状況を、自分はどう感じていたのだろうか。
(リュージ)
 背中に負っているのは、一人の青年の身体。声には出さず、その名を呟く。
「本当に、俺の中にリュージが入っているのか?」
「正確に言えば、お前の身体に憑依させているだけだ。お前は召喚術師ではないから、取り込むことは出来ないし、適応させることも出来ない」
「リュージの意識は?」
「これは推測だが、多分、眠ったような形だろうと思う。多少は、お前の意識と共鳴して、記憶が流れるかもしれないが」
「それでも、こうしておけば魂への影響は最小限で済むのだろう。それくらいなら構わんさ」
 リュージには迷惑なことかもしれないが、命には代えられないだろう。それに、俺には知られて困るような秘密などないはずだ。
 そんな大層な過去など持ってはいないし、最悪何かがあったとしても、リュージはそれを吹聴するような人間でもない。
 その時、ふとある疑問が沸きあがってきた。
「なぁ、リオン」
「何だよ」
「この術で召喚術師の精神が守れるのなら、最初からそうすれば良かったのではないか」
「理論上はそうなんだが……リュージに関していえば、これ以上の進行も、一時的にだが避けられる訳だしな。しかし、だ」
「これ以上の進行?」
 振り返ったリオンの目は、一瞬だが、冷やかな光を宿していた。
「まぁ、いいか。そろそろ、お前にも話しておくべきだな」
 何を、と聞くまでもない。
 リュージが何度も倒れた理由。それに対し、リオンはずっと回答を避けてきた。
 本来ならば、俺が尋ねていい話ではないのだろう。だからこそ、余計にリオンは意地になって、お前には話したくない、と首を横に振ってきた。
 おそらく、忘れてはいけないことだったからなのか。
「このことを最初に提案したのはクレオだったんだよ」
 覚えていないだろうけどな、と肩をすくめ、リオンは気だるそうに話し始めた。

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