馬車から降りた僕は、その丘から見下ろせる町並みに、思わずため息を洩らした。
「すっげー……」
 足元に広がるのは、青と緑で整備された道と、白で統一された人工的な建物。今までの町並みとはがらりと変わるが、逆に僕の目には馴染みのある光景と映った。
 あちらの世界の大学都市に良く似ている。
(大学、か)
 久々に、そんな単語を思い出して、こっそりと苦笑いする。

「行きましょう、リュージ」
 呼ばれて、ふと我に返った僕は、大人しく二人の後をついていく。
 丘を下っていき、
「リオデラート。索敵を」
「ああ」
 一つ頷くと、リオデラートはふところから箱を取り出した。
 おや、と不思議に思っていると、彼は三つほど指輪を取り出して、左手と右手の中指、薬指にはめている。それをちらりと見、クレオは眉を寄せた。
「何故、それなんだ?」
「おまじないみたいなものですよ。いざという時のね」
 その会話を聞きながら、僕はちらりと指輪に填まっている石を確かめた。
 地、風、そして良く分からない色の三つ。
 地は索敵と攻撃を兼ねてのものだろう。風と併用すれば、大体の地形が把握できる。口でいうほど容易い術でもないが、リオデラートの技量なら、問題はない。

 リオデラートが、詠唱を始めると、つい、その魔術構成に魅入ってしまう。僕自身は魔術を使えないが、見ることくらいは出来る。
 魔法使いとは、召喚術師とは異なる存在だ。
 魔女の力を借りるという点では、召喚術師と同じなのだが、彼等は魔女に働きかけるのではなく、魔女と契約を結ぶことで、その力を使う。
 この世界に溢れる魔力を管理するのが魔女だ。その魔女と契約を結び、魔力を汲み上げる。そうして術を編み出す。
 技術自体は、召喚術よりも高度なものだが、生まれついての資質に左右される部分は少ない。
 とはいえ、どれだけ多くの魔女と契約出来るか、どの魔力と相性が良いか、どれだけの威力を引き出せるか、という点においては、やはり素質というものがある。
 そしてリオデラートは、トップクラスの魔法使いだった。僕の側近として埋もれるには惜しいほどの、飛びぬけた資質を持っている。
 そんなリオデラートを僕につけたのは、エルネスト兄様の判断だったそうだが――

「……っ」
 ぐらり、と目の前が揺れた。堪えようとしたが、間に合わない。
 転ぶかと思ったところを、ぐいと捕えられる。
「リュージ?」
 のろのろと顔を上げると、そこには心配そうにこちらを覗きこむクレオがいた。
 その表情は、いつもとほとんど変わらない。
 とっさに、突き離してしまった。
「え?」
 自分で、自分の反応に驚く。
 そして何よりも僕を戸惑わせたのは。
「あ……」
 彼の表情が、動いていた。
 僕が何を言おうとも、今まで何事もなかったかのような顔をしていたはずのクレオが、初めて見せた表情の変化。
「……ご、ごめん。ちょっと緊張していたものだから」
「あ、ああ、そうだな。驚かせたか、すまない」
 何気なく言ったものの、いつもよりぎこちない表情が、妙に気にかかった。
 記憶を失っても、クレオは変わらないと思っていた。
 だが、初対面の時でさえ、普通に接してくれていたクレオが、僕との距離を測りかねている様が不思議で仕方がない。
 考えてみれば、当然のことなのだ。だが、そんな小さな変化に、改めて気づかされる。
(クレオは――)
 ちらりと彼を見ると、こちらに背を向けて、リオデラートと話していた。
「どうだった」
「分かりません。ただ……この辺に、生き物の気配があるようなのですが」
「どこだ」
「水路の中なんです」
「水……か」
 白い舗道の端を走る水路に沿って歩いていく。すたすたと行くクレオを追っていくと、彼はちょうど池のようになっている部分を覗き込んでいた。
「クレオ?」
 僕の呼びかけにも気づかぬ様子だ。ちらりと背中越しに見、僕はあわてて後ろに下がった。
「どうしました?」
「あ……いや、ちょっとな」
 リオデラートが気づいた。僕は曖昧に頷いてから、適当な言い訳を探す。
「思ったより、深そうだから、さ。驚いて」
「ああ、そうですねぇ。ここは深いですよ。この辺りは本来、普通の学生が入れない区域ですしね」
 だろうなぁ、と相槌を打つ。
 ちらりと見た限りでは、かなり深そうだった。一瞬、寒気を覚えるくらいだ、池というレベルなのかも怪しい。
 だが、クレオはそんな池の淵に平然としゃがみ込むと、何を思ったのか左手を水中に突っ込んでいる。
 クレオのやることだ、全く意味がない訳ではないだろうが、傍から見ている方はただ怖い。
 そっとリオデラートを突ついて尋ねてみる。
「なぁ、本調子でないクレオを連れてきて、大丈夫なのか?」
「多分……」
 曖昧に頷きながら、リオデラートは難しい顔で続けた。
「ただ、ここの調査にクレオが適任なのは間違いないんですよ」
 どうして、と尋ねようとした僕の後ろで、大きな水音がした。
「なっ……」
 思わず、足を引いてしまう。
 空まで伸びる、ぬめぬめとした鱗の柱。頭上を仰げば、でんとおわす竜の頭。
 正直、逃げ出さなかっただけでも、上出来だと思う。
 だが、クレオはもちろんのこと、リオデラートも動じた様子はなかった。僕の方を振り返り、小さく苦笑する。
「水竜を見たことは?」
「本で、一度だけ」
 正確に言えば、架空の動物として、だが。
「でしょうね。私も、ここに来るまで、実物を見たことはなかった」
 リオデラートの説明によると。
 あの水竜は、研究用に捕えられたものらしい。
 だが、捕まえたはいいものの、研究者達は竜の扱いに関しては素人だった。研究どころか御すことすらままならない。
 そこで、谷から留学生として、腕の良い竜使いを編入させたそうだ。

 その話を聞いて、以前、クレオが学園生活について話してくれた事を思い出した。
 クジで外れた、と彼は言ったが、本当は竜をならす腕をかわれて、招かれたというのが正解らしい。
 だが、あの口ぶりは多分、嘘でも謙遜でもなかったと思う。
「クレオは、竜使いとしてはどうなんだろう」
「一応、優秀らしいですよ。まぁ、私には良く分からない世界ですけどね。クレオを見ていると、ありがたみが薄れてしまいますし」
 そう言ったリオデラートの顔は、苦笑いだった。彼もクレオの友人だ、その性格は誰よりも飲み込んでいるのだろう。
「竜は人よりもずっと、魔女に近い存在です。彼と意志の疎通が出来れば、手がかりの解明が早まるのは間違いないのですが」
「なら、どうして今まで、竜使いがここに来なかったんだ?」
「いいえ。水竜の生存を確認する為に、竜騎士を数名送りました。けれども、彼らは水竜を見つけることすら叶わなかった上に……」
 彼は言葉を濁したが、おそらく、彼らもかなりの記憶を失ったのだろう。
「リオン」
「はいはい」
 リオデラートが呼ばれて行った。二人が話しているのを離れたところで見ながら、僕はこっそりと緊張を解いた。
 別に、二人と一緒に行動するのが、辛い訳じゃない。
 だが何となく、気が抜けない。
「リュージ。水は大丈夫か?」
「え?」
 顔を上げたものの、とっさにクレオから目をそらしてしまった。まずい、と顔を上げようとしたが、目が回って、また伏せてしまう。
「どうした?」
「あ、いや……なんで水路から? 正面からじゃ、駄目なのか」
「ああ……」
 明らかに不審な態度を取る僕に、クレオの声はあからさまに変化しつつある。だが、聞いても無駄と思ったのか、特に追求はしてこなかった。ただ、僕の問いに答えるだけ。
「どうも、正面からの侵入は危険らしい」
「言葉が通じるのか?」
「言葉とは、少し違うかもしれない。竜の言語は、我々と介すことは出来ないようなものだからな」
「じゃあ、どうやって」
「竜は魂の声を聞く。俺達は、仕草や目の色で、彼らの機嫌を読む」
 当然のごとく言われたものの、冷静に考えると、良く分からなかった。大分フィーリングに頼るもののような気がする。
「読めるの?」
「そうでなければ、竜騎士にはなれんさ」
 事も無げに言ってのけるクレオは、そういう意味では自信家だ。
 お互いに言語を介さないのに、読み違えるとか、分からないとか、そういう不安は出てこないのだろうか。
 そんな疑問が顔に出たのか、クレオは薄く笑って、こう言った。
「リュージ。人間だって、思ったことを全て言葉にする訳じゃないだろう。だが、それでもくみ取れるものはある」
 だから、と続けた言葉に、大した意味はなかったのだろう。普段通りの、なんてこともないような顔だ。
 だけど、僕にとってはひどく耳に痛い。
「伝えたいこと、伝えねばならないことが分かれば、それでいい」
 きっぱりとしたクレオの言葉に、深く頷いて、僕は頭を上げた。

 必要なことだけ伝えられれば、それで良い。それ以上はいらない。
 僕はずっとそう思っていて、今でもそう思っている。それでも、時折クレオに感じる苛立ちは、気づけという、我が侭な要求に他ならなかったんだろう。
 今までのクレオは、言わなくても気づいてくれていたんだ。その状況に慣れている身には、クレオの反応には、なかなか馴染めない。
 でも、今のクレオには、言わなければ伝わらない。
「……あのさ」
 ためらいながら、僕が言葉を発すると、二人が一斉にこちらを見た。何となく言いにくいけれど、ここは言わなければならない場面だと心を決める。
 足手まといになるとか、そんなことを気にする場面じゃないんだ。クレオの本質が変わらないのなら、彼が最後に投げた言葉は、今のクレオも感じるはずのことだから。
 だから。
「ごめん。俺、水路を使うのは無理かもしれない」
 無理をせず、はっきりと告げておく。
「一応、泳げるし、水自体は平気なんだけど、これだけ深いところはちょっとな……」
 そう打ち明けると、クレオは数度瞬きし、ぽつりと言った。
「ひょっとして、高いところが駄目なのか?」
 正解だ。
 しかし、あまりにあっさりと関連付けられると、拍子抜けがする。
 驚いていると、やや遅れたとはいえ、リオデラートも同様の理解を示した。
「ああ、高いところが駄目な人は、透明度の高い湖でも恐怖感を覚えるって聞いたことがあるよ。あれは、誰だっけ」
「あれは……」
 言葉を発したきり、黙り込んでしまったクレオの代わり、リオデラートが明るく手を打った。
「そうか、エルネスト様だ。あの方も高いところが駄目で、ここには絶対近づかなかったから」
 竜が吠える声が聞こえた。
 僕は耳を塞ぎ、そしてリオデラートは空を見上げる。
 彼が大きく振り返ったのが見えた。そして、名を呼ぶ。
「リュージ!」
 ぐらりと足元が揺れる。
 大地が空と入れ換わるのを見つめながら、僕は意識を手放した。



 色んな光景が見える。
 今までの夢と似ているけれど、全く違うような感触がある。
 視点が、定まらないのだ。
 今まで見てきた、あのリアルな夢は、フリージオ王子の記憶だったのだろう。慣れてくると、視点が彼だということが良く分かる。
 だが、今回は明らかに違う。
 学生達がじゃれあっている光景。制服を着た少女を見つめる場面。喧嘩を止めようと飛び出していく場面。どれ一つとして、僕の知るものはない。全て、こちらの世界の、おそらくこの都市で起こった出来事だ。
 それぞれ、はっきりとした現実感はある。しかし、フリージオ王子の記憶じゃない。
 フリージオ王子は、学校に通ったことがないはずだ。
 なら、これは誰の記憶なのだ。

 点々と場面が入り混じる。その中には、ひどく嫌なものもあれば、目を背けたいようなものもある。都市だけではなく、どこか別の場所のものもあるようだ。
(――クレオ)
 聞き覚えのある名前。
(クレオ)
 そちらに注意を向けた途端、その場面がはっきりと、鮮明に浮かぶ。
 ヤバイ、とどこかが警告を発した瞬間、記憶が強引に、意識へと入り込んできた。

 目に入ったのは、裸の背。突然の光景に一瞬だけ動揺したが、着替えの途中らしいと気づいて、そっと安堵の息を吐いた。
 先ほどから流れ込んでくる記憶の欠片には、当然のようにそういうものが紛れ込んでいたのだ。いい加減にして欲しいというのが本音。
 シャツを探しているのは、少年のようだ。一見、薄い背だが、骨格を見る限り、まだまだ成長途上という感じがする。
「お前の感覚は、おかしいな」
 どこからか発せられた声に、聞き覚えがあった。
(誰だった?)
 考えていると、少年がくるりと振り返る。
「どういう意味だ、それは」
 その顔を見た瞬間、息が詰まりそうになった。
 眉がきりりと上向いているが、どんなに頑張って怒りを表現しても、すねたような感じだ。整った顔立ちだが、そういう顔をしてもあまり迫力がないのは、目がまだ丸々と子供っぽいせいか。
 今とは大分印象が変わる。だが、見間違えようがないほどの面影は残っている。
 この顔は。
「おかしいよ。お前は、死ぬのが恐くないのか」
「……死んだこともないのに、恐いかどうかなど分からないだろうが」
 ああ、やっぱりクレオだ。
 反射的に手を伸ばそうとしたが、身体が思うように動かない。
 これは、視点となっている人物の記憶なのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。
 誰なのか分からぬまま、その人物は気だるそうに身体を起こす。
「だから、その感覚がおかしいんだ」
 誰と話しているのだろうか。
 砕けた調子から、親しい間柄だというのは分かる。少なくとも、同室にいたことのある人間だ。そして、目の前で着替える程度には――
 そこまで考えたところで嫌気が差し、思考を放り投げた。
(馬鹿馬鹿しい)
 突き詰めて、何になるというんだ。
 大体、そんな人間、山ほどいるだろう。いくらこの世界に同性愛が一般化しているとはいえ、同性の前で着替えるのをためらう男がいるとは思えない。
 現にクレオは――
(あれ?)
 クレオは、僕の前でも平気で着替えていただろうか。
 確かに同室になったことはある。だが、風呂で一緒になったことはない。
 風呂から部屋に戻ってくる時には、既に昼間のものとは別の服を着ていた。朝は朝で、僕よりも先に着替えているか、ちょっと僕が席を外している内に済ませていた気がしないでもない。
 改めて思い返してみれば、クレオの裸なんて、見た試しがない。だからこそ、若い頃とはいえ、裸の背を見ただけじゃクレオとは判別がつかなかった訳で。
 相手が僕だからか。
 いや、それはない、と自身で打ち消す。僕の身体、つまり主君の身体を見ることに抵抗があっても、その逆はないような気がする。
 中身が僕だということは、意識レベルで分かっていたようだ。同性の身体に興味を持たない僕相手に、恥ずかしがるはずがない。ゆえに、僕だからという遠慮は考えにくい。全てにおいて、そういう対応なのだと解釈すべきだろう。
 つまりこれは。

 他人が見てはいけない光景だ。

 きまり悪さに、目を背けたいのは山々だが、あいにくこの状況はそれを許してくれなかった。
 この記憶の主は、律義にクレオの動きを視界に収めてくれている。
 視線に気づいて振り返った彼は、一瞬だけ怒ったような顔をして、そして苦笑いを浮かべる。
「いつまで、そうしているつもりだ? お前も早く着替えろ」
「うるさいな。休みの日くらい、のんびりさせてくれよ」
「何を言う。シェスタ達に声をかけたのは、お前だろう。約束しておいて、遅れるつもりか?」
「まだ早いって……」
 矛先が向いた途端、視界がぐるりと反転して、毛布の中にもぐり込む。
 だが、すぐにそれは剥ぎ取られた。
「おい……!」
 抗議しようとクレオを仰ぎ、その目に思わず身を竦ませる。
「そうか、まだ早いか」
 何やら不穏な空気を感じたのは、僕だけではなかったようだ。即座に跳ね起きると、彼は自棄気味に枕を投げつける。
「起きるさ、起きればいいんだろ、起きれば!」
「そうしてくれ」
 投げつけられた枕を受け止め、してやったりという顔で笑う。その面影が、今も強く残っていることに気づいた瞬間、わずかな揺らぎを覚える。
 男同士だから、不快という訳ではないのだ。
 以前ならともかく、この世界に来て、様々なものを見聞きして、大分感覚が変わってきている。何とも思わないばかりか、可愛いな、とか、微笑ましいという感想を抱けるレベルまで改変されてしまっている。
 末期だ。
 だが、そんな心境の変化、それ自体が嫌なんじゃない。
 けれど、この笑顔が向けられる先のことを考えると、どうも心穏やかではいられないのは何故だろう。

 少しずつ、少しずつ、その波が広がっていくのを感じながら、僕は再び意識を手放していく。
 次はもう目覚めないかもしれない。
 ぼんやりと、そんなことを考えながら。

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