城に戻り、ちょうどリオデラートの部屋へと向かおうと廊下を曲がったところで、僕は思わず回れ右をしていた。
 ちょうど部屋の前に、クレオがいるのが見える。
 いや、おそらく報告か何かだろう。不自然なことではない。そして自分がリオデラートを訪ねるのも、自然なことだ。ここで会っても、不思議でもなんでもない。
 けれど、気まずいのは確かだ。
 僕が物影で悶絶していると、向こうから声が聞こえた。
「クレオ」
 リオデラートだ。呼ばれたクレオは、気さくに片手をあげる。
「戻ったか。無事で何よりだ、リオン」
「ああ、こっちはな。お前の方は」
「分からん」
「分からん、て……」
「とりあえず、不自然な記憶のズレはないように感じるが、あくまで主観なんでな。変なところが切れていたとしても、自分じゃ気づけんよ」
 ああ、そうか。クレオは次の町へ偵察に行っていたんだっけ。
 無事な様子にほっとすると同時に、出来れば例の日の事は記憶から消えていてくれないだろうか、と都合の良いことを考えていたところ。
 突然、ぽん、と肩を叩かれ、思わず飛び上がってしまった。
「どうした、リュージ」
「あ……なんだ、シェスタか」
 ほっと胸を撫ぜ下ろした途端。
「ああ、ちょうどいいところに」
 再び、背後から声がして、尻餅をついてしまう。
 その僕の頭上を越えるようにして、シェスタの肩を掴むリオデラート。
「ちょっ……」
「さて、問題だ。これは誰でしょうか」
 目を白黒させているシェスタを一瞥し、クレオは苦笑いで肩をすくめた。
「さすがにシェスタのことは覚えているぞ」
「そうか。じゃあ……」
「俺の記憶に関しては、後で不都合が発生した時に考えればいいだろう。それより、都市のことを聞かなくていいのか」
「それもそうだな」
 自分から注意が逸れている内に、と立ち上がろうとした瞬間、足首に激痛が走った。
(ヤバイ)
 転ぶと思った。けれど、予期していた衝撃はなく、その代わり、右腕がしっかりと取られている。
「大丈夫か」
 小さく頷く。
 今までと変わらないクレオの態度に、ほっとしたのも確かだが、同時に理不尽な怒りもこみ上げてくる。
 気にしていたのは、僕だけなのか。
 内心で鬱々としたものを抱え込んでいる僕に、リオデラートが声をかけて来た。
「今回は、君も同席してくれ、リュージ」
「ああ、分かった」
 彼に背を向け、リオデラートの方へと行こうとした。その時、リオデラートがふと妙な顔をしているのに気づく。
「……どうした、クレオ」
 訝しげにそう尋ねたリオデラートに、後ろの騎士は戸惑っているようだった。
「いや、その……一つ、確認していいだろうか?」
 続いた言葉に、思わず振り返る。
「彼は、君の部下なのか?」
 指し示した手は、僕へと向けられていた。



「では改めて、整理してみようか」
 少し離れた場所で座っている僕にも、リオデラートの眉間の皺が確認出来た。おそらく、あの調子ではこめかみも震えているに違いない。しきりに指をあてている。
「質問です。フリージオとは誰ですか」
「王弟殿下であり、俺の主君であらせられる方だった」
「僕は?」
「王宮魔道士のリオデラート。学友で……つくづく腐れ縁だな」
「ほっとけ」
 書類を投げ出す音。そして彼は、びしりと僕を指して尋ねた。
「で、彼は?」
 わずかな間があってから、クレオは困ったように眉を寄せる。
「……すまん」
 リオデラートは天井を仰ぎ、シェスタはおろおろと僕等を見比べている。冷静なのは、僕だけだったかもしれない。
 僕としては、何故皆がそこまで驚くのか分からない。予想の範疇だろう。
 クレオの中で、僕との記憶は、比較的新しいものに分類される。
 人格形成において重要な過去というものは、深く人間の中に刻み込まれている。けれど新しい記憶というのは、どうしても刻まれ具合が薄い。
 それだけ、忘れやすいということなのだ。
 現に、この騎士にとって、重要な人物はきちんと記憶されているようで、首をひねりながら出してくる名前といえば。
「顔立ちはフリージオ様に似ておられるようだが」
「似てるっつーか、そのまんまだからなぁ」
「そのまま?」
 僕のつぶやきを耳に留めたクレオは、少し眉を寄せて考え込み、ぽんと手を打つ。
「ああ、確かに顔はそっくりかもしれない」
「だから、そっくりじゃなくって、そのものなんだ! それくらい見分けろ!」
 僕より先に、リオデラートが壊れた。ばんばんと机を連打。ちょっと怖い。
 しかしクレオは慣れているのか、全く動じていなかった。
「だが、フリージオ様ではないだろう。そのくらい、見分けがつくぞ」
「あああ、何で得意げなんだ、何でふんぞり返って胸張ってるんだ、っていうか脳みそ入ってないだろお前!」
「まぁ、落ちつけよ、リオデラート」
「これが落ちついていられるかーっ!」
 だからこいつと組むのは嫌なんだ、と言いたげな顔をしていたが、今回に関してはリオデラートのせいだろう、と僕はこっそり思う。
 多分、ああは言ったものの、大丈夫だと踏んだからこそ、クレオを行かせたのだろうが、こうなる可能性は十分にあった。
 出来るだけ、軽い調子で響くよう、言葉を選ぶ。
「予想の範囲内だろ。お前だって、多少はそうなるかも、とは言ってたくせに」
「それはそうですけど……」
 渋々認めながらも、リオデラートはうんざりと首を振る。
「こんなの多少じゃないですよ。許容範囲外ですよ。どこで脳みそ落としてきたんですってくらいに」
「だけど元からヤバかったと思うぞ、正直」
 つい、ぽろりと本音が出た。
 しまったと口を押さえたが、そこに、なるほど、とシェスタとリオデラートが仲良く唱和したものだから、フォローも思いつかない。恐る恐るクレオを見ると。
「よく分からんが、怒った方が良いのか、俺は」
 ……あまり、分かっていないようだった。
 確かに、これは酷いかもしれない。元々、クレオはずば抜けて賢くはなかったろうが、所々の発言に多少の知性というものは感じさせたものだ。
 だが、これでは筋金入りの何とかだ。
「とりあえず、彼はフリージオ様ではない。それは間違いではないだろう」
「そうだな」
「少し曖昧なのだが、フリージオ様は召喚術を使われて、そのまま……」
「あのな、それは」
「そうです」
 僕の言葉をさえぎったリオデラートは、不自然なほど、表情が消えていた。こちらの問いなど許さないほど、きっぱりとした口調。
 つまり、言うなということなのだろう。
 確かにそうだ。もし万が一、フリージオ王子を復活させることに失敗したら、クレオもシェスタも二重の痛みを負うことになる。
 かすかな期待なら、もたせない方が良い。
 僕はリオデラートに分かったと目配せし、彼等が一からクレオに説明するのを、横で黙って聞いていた。



 部屋を出た時、クレオは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。思わず、声をかけてしまう。
「大丈夫ですか」
 すると彼は、ようやく普通の顔に戻る。
「状況は理解した。後はこれ以上、記憶の穴がないことを祈るのみだ」
「大丈夫じゃないですか。家族のことは覚えてるんでしょう」
「ああ、それはもちろん」
 答えた後、彼はまた難しい顔になってしまった。
「しかし、いざという時、記憶が繋がっていなかったら、と思うとな」
「多分、消えているのは、全て最近の記憶でしょう。それなら、僕でもあらかた補充できるはずですから」
「そうか」
「だけど、私生活の方は知りませんよ。どこの相手に恋文書いてたとか、どこの男に手をつけたとか、そういうことは一切、把握していませんからね」
「俺は一体、貴方にどういう接し方をしてきたんだ」
 憮然と腕を組むクレオに、曖昧な笑みで応えておく。
 すると彼は。
「……すまない」
「は?」
「いや、忘れるというのはやはり……その、失礼だと思ってな」
 気まずそうに、そう言ったクレオに、僕はこっそりと苦笑いを浮かべる。
「不可抗力でしょう。それに、僕と貴方は付き合いも短いですし、忘れても仕方ないですよ」
「どんなに短い付き合いでも忘れないぞ、普段なら」
 それは、ごく自然にこぼれた言葉。
 何気ないその一言に、息が詰まるような心地がする。
「ずいぶん、自信ありげだな」
「俺は騎士だからな。なるべく、忘れないようにしている」
 まるで当然のように言ってのける黒衣の騎士。
「どうして」
 滑り出た問いに、彼はあっさりと答えてくれる。
「死と隣り合わせの仕事だからな。自然と、そういう風に考えてしまう」
 今のクレオは知らない。
 彼の頭にあるのは、フリージオ王子を媒体として、僕が異世界から召喚されたということだけ。
 だから、彼は僕の前で目を細めて、屈託なく言ってのけるのだ。
「生きている今が有限で、すれ違う瞬間全てが、貴重なものなのだと」
 その言葉は明るいけれど、反面、ひどく物悲しく響く。

 何なんだよ、とやつあたりのように思う。
 筋金入りの馬鹿なのに、どうしてこんなにも。

 その背に、惹かれるのだろうか。

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