彼はずっと、沈黙していたそうだ。
 けれども、僕がそんな様子を見ることはなかった。僕が姿を見せた時だけ、少年は微笑んでみせてくれた。そうして、こう言うのだ。
「大丈夫だよ、リュージさん」
 まるで僕を慰めるように、その小さな手を伸ばす。
「ぼくは、もう大丈夫だから」
 少年は、取り留めのないことを色々と話してくれた。
 青年と出会った時のこと、町からやってきた彼は、迷信を歯牙にもかけなかったこと。けれど、少年を殺そうとした村人達からかばって、死んでしまったこと。
 そこで言葉を切った。
「リュージさんを見た時……あなたの魂に触れた時、ぼくはなんて……なんて、魔女はいじわるなことをするんだと思った」
「え?」
「あなたは、あの人にそっくりだったから」
 おそらく、僕は相当情けない顔をしていたのだろう。そっと僕の顔に触れると、目を閉じたまま、少年はその言葉を繰り返してくれる。
「でもね、リュージさん。この村に来てくれたのがあなただったから、ぼくもあの人は救われたんだと思う。だから、ぼくは大丈夫なんだ」
 まったく、どちらが年上なのか、分からなくなりそうだ。
 僕は何も言えず、ただぽんと少年の頭を撫ぜると、そのまま部屋を出た。
 外に出るなり、近くで待っていたクレオが横に張り付く。
 普段なら、過保護だとぼやく場面だが、さすがに今回ばかりは僕も笑えずに彼を見上げる。
「村の様子はどうなんだ?」
「ひとまずは、落ちついているようだ。さすがに王都に逆らってまで、どうこうしようとは思わないのだろう」
 クレオの返事にひとまず安心したものの、胸の暗雲は消えそうになかった。
 少年が今いるのは、宿屋の一室だった。周囲は要請を受けた騎士団員で固められており、決して彼には危害が加えられないようにとの配慮が為されていた。
 シェスタに聞いたところによると、こうした業務は決して珍しいことではないそうだ。
 召喚術師に限らず、この世界にはちょっと珍しく、かつ、常人には恐れられるような能力者というような、王都での保護を必要とする子供は少なくないらしい。もちろん、年に十回も満たないそうだが、そうした子供達の保護も騎士団の仕事に含まれる。
 だが、手慣れている様子を見せながらも、クレオ達の表情は険しい。
 無駄だろうな、と分かっていたが、わざと尋ねてみる。
「外へ出ても大丈夫そうか?」
「それは駄目だ。今は静かだが、なるべく刺激するようなことは避けて欲しい」
「……そうだな」
 きっぱりと拒否するクレオの姿に、言葉以上の断絶があることを何となく読み取り、僕は沈黙するしかなかった。
 この宿の中にいても、窓の外に、宿屋の人々の目に、冷やかな敵意を感じるのだ。外は相当のものだろう。
 クレオが呪いを切り捨てた瞬間、村にかけられた魔法は解けてしまった。
 死人は死人へと還り、人々は大切な誰かの死を知った。
 唐突に、そして再びその悲しい記憶を甦らされた時、人はどんな風に感じるのだろう。
 ――恨まれて当然だ。
 どちらが悪いというのであれば、僕は間違っていない。非があるとすれば、むしろ村人の方だろう。少なくとも、彼等は罪もない少年を死に追いやろうとした。
 けれど、感情は理屈じゃない。更に言うならば、僕はこの村にとって、ただの余所者だ。余所者が内部のことに口を挟むのは、決して良いばかりではないと思う。
 そう考えれば、僕にも非はある。
「リュージ」
「ん?」
「一つ、頼みがあるんだが」
 なんだ、と気軽に振り返った僕は、そのまま動きを止めた。
 目の前のクレオが、ひどく深刻な顔をしていた。ただ真面目だとか、真剣だとかそんな甘いレベルではない。
「これからは、召喚術は使わないで欲しい」
 重い一言だった。
 僕は無言で頷きたい衝動に駆られたものの、それをぐっと押さえる。
 リオデラートの言葉が、ふいに頭を過ぎった。彼はクレオのことを、見た目ほど単純ではないと評した。僕も、薄々とそれを感じ取っている。
 それでも僕は、虚勢を張ってみせる。
「……悪いな、クレオ。使えるものは使う主義なんだ」
 そう言うのがやっとだった。
 告げた後の静寂も痛ければ、何も言わないクレオからの圧迫感も相当だった。つい、沈黙を恐れて、言い訳を重ねてしまう。
「前にも言ったと思うけど、俺はこんなこと、早く終わらせたいんだ」
「そう思うなら、どうしてもっと早く俺達に話してくれなかったんだ」
 質問自体は、普通のものだった。声を荒らげた訳でもない。
 それなのに何故か、今のクレオを怖いと感じた。
 僕の内心を知ってか知らずか、彼は更に質問を重ねてくる。
「それが一番の早道だろう。あの少年を保護するにしろ、核を捕らえるにしろ、俺かシェスタと貴方が連携を取れば、効率よく話が進む」
 クレオの指摘はもっともだった。
 精神的に追いこまれた状況での反論は想定外だったが、それさえ除けば、十分に予想出来る問いかけだ。その指摘に応じられるだけの準備はあった。僕はずっと、そのことを考え続けてきたのだから。
 僕は何とか恐怖心を押さえつけ、そっと息を吸う。
「なぁ、クレオ。お前には、あの黒いものはどういう風に見えた?」
「質問しているのは、俺の方だが」
「うん、だから聞いたんだ。それがはっきりしないと、どこから説明して良いのか分からないから」
 クレオはじっと僕を睨んでいた。そして、渋々といった様子で口を開く。
「……青年に見えた」
 その答えに、失望したのか、安堵したのか、自分でも良く分からない。
 見たくないものを、人は無意識に避けようとすると言われた。その心に付け込んで、あの姿を取ったとしたら、なるほど頭の良いことだと思った。
 だが、そうではなかったのだ。
 偶然なのか、それとも魔女の謀りごとだったのか。ひょっとしたら、少年の願望でしかなかったのかもしれない。
 どれでも構わない。意図的であろうと、偶然であろうと、行き付いた先は同じだ。
 僕は、心の準備を固め、クレオに尋ねる。
「どう思った」
「どう思ったと言われてもな。何故、そんなことを」
「いいから、答えてくれ」
 強く言えば、ますます瞳が迷うのが分かる。
「まさか」
 戸惑うクレオの目に映っているのは、どちらなのか。
「リュージ……なのか?」
 その一言に、全身が冷え切っていく。
「残念ながらリュージですよ、俺は」
「あ……いや、そうじゃないんだ。ただ、その……記憶が、大分フリージオ様のものが引き継がれているようだから」
「それでも、俺はリュージだよ」
 せいぜい笑って応じてみるが、疲労感は拭えない。誤魔化せたのかさえ、自分では分からなかったし、クレオの顔色を窺う気などとても起きなかった。
 僕がした質問の答えなど、どうでも良い。その問いかけで十分だ。
 彼の瞳には、フリージオ王子の姿が映っていたと分かった。それで満足だ。
「クレオ――」
 今となっては言えない。けれども、尋ねたからには、僕は彼の質問に答えなくてはならない。
「あの青年はな、あの子の恋人だったんだと」
「そうか」
「驚かないんだな」
「別に驚く理由がないだろう」
「俺には驚きの連続だよ。あれだけ年が離れているだけでもびっくりだけど、まず同性ってところから理解出来ない」
 険しかったクレオの表情が、ふと変化をみせた。
 見ていると、つい笑いそうになってしまう。クレオは驚くことや疑問にぶつかると、途端に表情が幼くなるようなのだ。今回は、驚きの方だろう。そんな顔をしている。
「確かに年のことは気になるが、同性というのは別に奇妙なことでもあるまい」
「うん、こちらでは珍しくないんだろ? でも、俺の世界では珍しいことなんだ」
 だから、と後に続ける。
「なかなか言えなかった。上手く説明出来なかったんだ。俺もけっこう動揺してて、かなり読み違えていたところもあった」
 考え込んでいるクレオからは、先ほどのような圧力を感じない。
 そこで僕は、何かを忘れていたような気がした。
「あ」
 しまった、と気づいた時には遅い。
 失言だった。
 忘れていたのではなく、当たり前のように考えていて配慮する必要を感じていなかったが、そもそもクレオは同性愛者じゃなかったか。
 しかも、フリージオ王子との年の差。
 どれもこれも、そのままクレオに当て付ける言葉になっていたことに、今更のように気づいて内心で悶絶する。
 それで表に出ていないのならともかく、クレオのなんとも気まずそうな様子からして、誤魔化し切れていないのが良く分かる。
 駄目だ、認めよう。正直過ぎるんだ、僕は。
 今度は素直に、フォローの言葉を付け加えることにした。
「もっとも、クレオが王子様とデキてたって聞いても、それは驚かないけど」
「何故、そう思う」
 僕は墓穴を掘ったことに気づかされた。
 聞きました、なんて言えるはずがない。仕方なく僕は、思いきり適当な事を言った。
「名前を出す時とか、話す時の感じで、そう思ったんだよ。そういうのって、何か違うじゃん」
 息詰まる一瞬。クレオは更に更にきまりの悪そうな顔になり、小さく息を吐いた。
「割り切れているつもりだったんだがな」
 薄々、感じていたことだったけれど、本人の口から聞かされたものほど決定的なものもない。したり顔で頷きながらも、僕は強いショックを受けていた。



 気づくと、朝になっていて、来た時と同じ御者が笑顔で挨拶してくれた。それに対し、自分がどんな顔をしたのか、良く覚えていない。けれど、そう変な対応はしていなかったはずだ。
 御者は笑顔のままだったし、シェスタも少年も、特にこちらを気にする素振りはなかった。
 ただ一人を除いては。
 昨日から、まともに口を聞いていないような気がする。もちろん、普段通りの会話は交わしているが、普通に応じるクレオの態度が何だかぎこちないように感じられた。
 昨晩も、クレオと二人で歩くのも気詰まりで、僕は早々に部屋へと引き下がっていた。そのまま、ぼんやりとしていたら、いつのまにか寝てしまっていたのだ。
「行こうか」
 その声に頷いて、僕は馬車へと乗り込んだ。
 出ていく馬車を見送る村人達の視線は冷たい一方で、どこか安堵しているようにも見えた。
 これは村人にとって、災いを乗せた船のようなものかもしれない。それが出ていくことで、彼等の中に一応の決着は見出せるのだろう。
 ぼんやりとした思考は、昨晩の夢に影響されたものだった。

 昨日の夢は、雛人形の夢だった。妹のものだ。
 僕は良く知らないが、元々の雛人形とは、災いを背負わせて川へと流す人形だったと聞く。ならば、僕等が流し雛に当たる訳か。
 うちにあった雛人形は、立派なものではなかった。少し見劣りのする二つの雛に、妹が泣いていたこともあったっけ。五月人形はそれなりに高価で、見栄えのするものだったから、妹からすれば不満だったのだろう。
 何故、自分だけと。
 小さい頃、我慢を強いられたのは自分だばかりだと思っていたけれど、よくよく数え上げてみれば、妹だってそれなりに辛抱はさせられていた。自転車は僕のものが先だったし、妹は僕と共有させられていた時期もある。
 ぐっと涙を呑み込む瞬間、妹も僕を憎んだのだろうか。
「リュージ」
 気づけば、少年が膝の上に体重を預けるような体勢で、僕を見上げていた。思わず目に手をやったが、涙は流していない。
「解けない方が良かったかもしれないって思った」
 言い当てられて、思わず身を固くする。そうでしょう、と寂しげに微笑む少年は、そっと僕の両頬を手で挟んだ。
「あの村では、ぼくのように一人ぼっちの人がいない訳じゃなかったんだ。行き倒れた人も、旅人もいた。そういう一人ぼっちの死者達が皆、死人がえりとなって、燃やされても復活して来た」
 改めて説明を受け、墓から出てきた形跡がなかった理由に気づいた。
 彼等は埋葬されることのない死者達だったのだ。だから墓からは現われず、どこか忘れられた場所から、ひっそりと姿を現し、また消えていったのだろう。
「あそこには死がなかった。でもそれは、いびつな形だった。生者に必要とされなくなったら最後、死人がえりになってしまうような、そんなあやふやなものでしかなかったんだ」
 そう言っている少年自身が、奇跡を振りほどくことが出来なかったのだ。それほど甘美な夢なのだと、彼自身が一番良く知っている。
 彼だって召喚術師なのだ、いつかは覚めなければならない夢と知っていた。それでも一人で振りほどくことは出来ず、時を待つしかなかった。
 魔女に導かれた僕が、むりやり夢を奪っていく時を。
「リュージ。確かにね、死んで欲しくなかった人、沢山いるよ。でもね、死があるからこそ、人は平等でいられるんだと思うんだ」
 それでも必死に慰めようとする少年に、内心で謝る。本当に辛いのは誰なのか、知っているのに、それでも彼に無茶を強いてしまうことを、ただ詫びる。
「だってそれでようやく、皆が同じ土に帰ることが出来るんだもの」
 ありがとう。
 その言葉を彼にも返し、ぽんと頭に手を置いた。



 少しずつ、違和感が強まっていく自覚はあった。
 ちょうど飛竜のいる谷から戻ってきた頃から、ずれが生じ始めていた。
 その予兆は、城の中で、あるいは別の場所で、会話している瞬間にふと顔をのぞかせる。だからこそ、恐ろしい。
「リュージ」
 城の書庫に入ったところで呼びとめられる。振り返り、僕はそこで軽く手を上げた男性を見て、軽く頭を下げた。
「ああ、この間はありがとうございました」
「あれで用は足りたか」
「はい、十分すぎるほど」
 そう言うと、彼は満足そうに頷いた。まだ会って日が浅いが、この人の気取らぬところ、そして些細なことからも子供のような喜びを見い出せる無邪気さに、僕なりの好感を持っていた。
 中年というほどではないが、決して若くはない。
 この書庫で出会ったのは確かなのだが、名前や身分は覚えていない。聞いていないのかもしれないが、万が一、忘れてしまった可能性を考えると、なかなか聞き返すことができなかった。
 口調から、高官か文官なのだろうということだけは分かる。
「大分、慣れてきたようだな」
「……ええ、皆さん良くして下さるので」
「それはリュージの人徳だろうな」
 面と向かって、しみじみとそんなことを言ってのける。
 どんな顔をして良いか分からず、とりあえず笑って頭を下げるに留めた。内心は複雑だ。それは彼も同じだったようで、深いため息をつく。
「私も正直、今でも複雑な思いがある。本当のことをいえば、最初はなかなか受け入れられなかった。いや、今もとても納得出来そうにないが……」
 物憂げにうつむき加減で、ふとわき見をする。その横顔に、見覚えがあった。
 違う。もっと若い青年の横顔だ。彼がこちらを向いてはにかんだように笑う様を、遠い昔に見たような気がした。
 はっきりとではない。おぼろげな、霧の向こうにいる誰かを見ているような、ひどく遠い感触がする。
「それでも、不思議なものだな。こうしていると、少しだけ」
「リュージ。ここにいたのか」
 彼の話が途切れると同時に、僕の空想も霧散した。
 会話を打ち切った張本人は、大股でこちらまで来て、ようやくもう一人の存在に気づいたらしい。深く一礼をした。
「これはご無礼を。こちらにてご歓談のご予定とは存じあげず、失礼をつかまつりました。ひらに、お許しを」
「しばらく会わない内に、ずいぶん嫌味が上手くなったな、クレヴァリア」
「滅相もございません。嫌味を申し上げるなど、畏れ多いことを」
 そんなやり取りを見るにつけ、どうやら目の前の人物が大物らしいと実感する。僕にとって、目の前の人物が高い位にいるという事実は、ある点において重大なことだ。
 つまり、フリージオ王子と面識があっても、不思議ではない人物だということ。
 間違いない。
 僕の中を占めるフリージオ王子の記憶は、時と共に増大しつつある。



 目が覚めると、妙に綺麗な作りの天井が見えた。
「あ……」
 そうか、城に戻って来たんだっけ。
 身体を起こすと、まだ部屋の中は暗い。時計を取って、まだ明け方にもならない事を知った。
 再び寝転がってみたものの、一度目が覚めてしまったせいか、眠れない。のろのろと立ちあがると、僕は近くに用意してあった上着を引っ掛けて、部屋から出た。
 そうしていると、不貞寝する前の記憶がよみがえり、一層暗澹とした気分になった。
 薄々気づいていたこととはいえ、改めて事実をつきつけられると、ショックを通り越して、笑いしか出てこない。
 ほとんど諦めていた。にも関わらず、僕は生まれて初めて、神がいて欲しいとさえ願った。
 往生際の悪いことだな、我ながら。
 比喩にならない比喩を呟いて、僕はここに来たばかりの頃、逃げ出そうと走った道を進み、庭の方へと向かう。
 テラスのところに来た僕は、そこに先客を発見し、即座にきびすを返そうとした。だが、相手の方が反応が早かった。
「そこにいるのは、誰だ!」
 そのまま逃げても良かったが、おそらく相手の方が早いだろう。僕はあきらめて足を止めると、出来るだけそっけなく返した。
「失礼。人がいるとは思わなかったので」
 姿を見せた瞬間、その綺麗な人の顔を過ぎったものを、僕は複雑な思いで見送った。
「……お前か」
 言葉こそ荒いが、声には覇気がなかった。
 僕も感じているのだ、当人も意識しているだろう。大分、態度が軟化してきている。けれども、同時にそれを苛立たしく思っているのも、何となく伝わってきた。
「こんな時間に、何をしている」
「散歩だよ。あんたこそ、早く寝た方が良いんじゃないか」
 そう言った途端、彼女の表情が変わった。また失言だったらしい。これは怒鳴られるか、と覚悟していたが、彼女はただ力なく首を横に振っただけだった。
「お前は……全く」
 戻ろうか、と思っていたけれど、何だか彼女の様子が気になって、離れられずにいる。
 そういえば、とあることに気づいた。
 女性恐怖症に目覚めてしまった僕だが、何故か彼女には恐怖を感じたことはなかった。
 彼女の言い草に、何度かムカついたことはあったけど、ただそれだけだ。
 それに――
 彼女の言うことは理不尽過ぎて、あまり現実感がない。だからこそ、あまり僕も腹が立たないし、傷つくこともない。
 僕を責めているというよりは、もっと別の大きな何かを憎んでいるような気がして。
「お前は、フリージオ様じゃないんだな」
「うん?」
 突然の質問に、僕は間の抜けた声をあげてしまった。けれど、彼女はにこりともしない。
「性格は間逆。気の遣い方も正反対。あの人は素直で優しい方だったが、お前はとことんひねくれたエゴイストだ」
「お褒めに預かりまして光栄です」
 笑って返すが、こちらを見つめる青い瞳に、僕も自然と真顔になった。射竦められ、身動きできなくなってしまう。
「あの方は、王家に咲く華。そんなあの方が婚約者だったことに、まだ娘だった頃は舞い上がるだけ舞い上がって、そして思い知った」
 その声が、甘やかに響いた。
「でもたとえ婚約という約束で縛っていても、あの方の心はない。それが悔しかった。何としてでも、私に振り向かせたかった」
 はらはらと涙を落とすでもなく、それでも彼女の声だけが泣く。
「でもあの人は、逝ってしまった」
 その声は淡々としていた。それなのに、まるで悲鳴のように響いて聞こえる。
 あの冷たい部屋で、起きあがった僕と出会った時からではなく、あれよりもずっと前、彼が永遠に目を閉じた時からシェスタの苦悩は始まっていた。
 だから僕は、シェスタの言葉を聞く。
「全然違う場所から来た、全然違う人で、あの人とは似ても似付かなくて、でもたった一つだけ、似てた」
 緊張する。この息詰まる瞬間を、僕は知っている。
「貴方も、私を愛さない」
 その言葉の意味は、一言では表せないほど深い悲しみと、そして優しさに満ちていた。
「……俺は」
「分かっている」
 そう答えると、彼女は少しだけ笑みを浮かべ、項垂れた。どちらからともなく、腕の中に抱きとめる。
 最初で最後の抱擁は、そんな甘いものではなくて、同情と決別の意味しかないとお互いに分かっている。だからこそ、彼女は重ねて口にする。
「ずっとフリージオ様が好きだった」
「うん」
「その想いは変わらないと信じていた」
「……うん」
「それでも今、ここにいるのがリュージで良かった、と思うんだ」
 どうして彼女にだけは恐怖を覚えなかったのか、何となく分かる。
 リオデラートに告げられた事実。あの村で見た青年の姿。未練。全てが絡み合って、一度は固めたはずの意思を強く揺さぶる。
 そんな中で、シェスタの言葉は、僕にほんの少しの安堵を与えてくれるものだった。

 どれくらいの間、そうしていたのか、良く覚えていない。
 僕も時間の感覚を消失していたし、シェスタもそうだったのだろう。
 取り留めのない話をしながら、シェスタを見送って、僕はフリージオ王子の部屋へ戻ろうとした。そこで、部屋の前にとんでもない人を見つけてしまう。
 クレオだ。
 何で僕が使っている部屋の前に、と舌打ちしてしまったが、別に不思議なことでもなんでもない。
 リオデラートからは早くも次の場所についての指示があった。確認の為に、彼が来るのは自然な流れだ。
 だが、僕を待っていただけにしては、クレオの様子は不審だった。
 窓の方を向いたまま、動く気配がない。
 その表情が妙に硬いことが気にかかり、彼の視線を追って近くの窓から外を覗いた僕は、あまりのことに腰を抜かしそうになった。
 先ほどまでいたテラスの様子が、ここからしっかり窺える。
 上手く木々に隠れて、外からは見えない場所にあったと思っていた。それは決して間違いではなく、ここからでも半分しか覗き見ることが出来ない。
 しかし一ヶ所だけ、完全に見通せる位置があった。
 ちょうど今、クレオが立っている窓が、その場所に当たるはずだった。
「戻ったのか」
 突然、声をかけられ、僕は飛びあがらんばかりに驚いた。
 分かっている、クレオだ。必死に心臓を手で押さえつけながら、僕は不機嫌そうにたたずむクレオを見上げる。
「お前、いつからそこに」
「つい先ほどだが」
 クレオはそう言ったが、一瞬だけ表情が強張ったことに僕は気づいていた。ぐいとその手を引いてやれば、すぐに嘘だと分かる。
「嘘つけ。ついさっきで、こんなに冷えるかよ」
「それは」
「ああ、とにかく、早く部屋に入らないと風邪を引くぞ」
 不毛な言い争いは御免だったので、早々に部屋の方で用件を聞くことに決めた。

 クレオの用件は、予想通り、リオデラートとの打ち合わせの確認だった。
 けれど、今回はきちんと話が通っているようで、さほど食い違う点もなかった。
 本来、そんなことがあっては困るのだが、リオデラートとクレオは所属が違うせいか、見解にかなりの違いがあるのが常だ。
 ただ、それも二人の話し合い不足が原因なので、その元凶となっているリオデラートが腹をくくりさえすれば、特に問題が生じることもない。
「……ということだ」
「うん。ああ、あと今回は、リオデラートもついて来るって聞いてるか?」
「……一応」
「また、痴話喧嘩するなよー? 挟まれる方は堪らないからなぁ」
 軽い冗談のつもりだった。けれど、クレオの返答はいつになくそっけないものだった。
「そんな関係じゃない」
 クレオにしては大人げない、きっぱりとした物言いだった。
 謝った方がいいのか、と思ったが、何だかタイミングを逃してしまって、謝るのも変だし、笑うのも怖い。
 物凄く気まずい沈黙を、クレオの咳払いがおさめた。
「リュージ」
「ん?」
「いや……」
 見返した瞳は、思わずどきりとするほど真剣なものだった。
 彼は何か言おうとしたものの、すぐに閉じ、しばらく思案しているようだった。けれど、意を決したのか、ようやく口を開いた。
「兄からちらりと聞いたのだが、リュージは同性愛者恐怖症なのか」
 すぐに頷くことはためらわれた。けれども、その躊躇だけでも、クレオには十分だったのだろう。それ以上は問わず、こう切り出してくる。
「代わった方がいいか、それを確認したいと思った」
「何……を」
「貴方の護衛を、だ」
 一瞬、頭が真っ白になった。震え出しそうになる拳を、強引に押さえ付ける。
 その時のクレオは、決して怖くはなかった。むしろ、表情自体は優しかった気がする。なのに僕は、その言葉に恐怖を覚えずにはいられない。
 それを克服する手は、早口で尋ねるくらいしか思いつかなかった。
「何で、今更そんなことを確認するんだよ」
「状況が変わったからだ」
 クレオの口調は、あくまで冷静だった。それが余計に、こちらを苛立たせることなど思いもせずに、彼は淡々と話し続ける。
「最初の頃は、貴方も俺も、互いのことなんて知らなかった。けれど、今は違う。知っていて、尚も今まで通りにやっていけるのか。そう尋ねている」
「……クレオの良いようにやってくれ」
 それは、無責任な返答かもしれなかった。けれど、僕にはそれ以上、何が言えたろう。
「俺は異世界から来た人間で、フリージオ王子じゃない。多分、お前の主君にはなってやれないし、身代わりになれると思うほど自惚れちゃいない」
 僕は山崎隆二という人間だ。けれども、それはもう故人だ。
 なら、ここにいる僕は誰なんだ。
 今まではずっと、その事実を考えないようにしていた。けれど、僕に似た青年を目の前にして、悟らざるを得なかった。
 この身体はもう、山崎隆二ではないのだと。
 僕一人のものではない。だから、この姿を見て呼ぶ名が、リュージでなくてもいい。
 正直、嬉しくはないことだが、これ以上クレオに我慢を強いていくのも辛い。
「それでも、この戦いはフリージオ王子のもので、この身体もお前の主君のものだ。お前の意見の方が大事だろう。それに異議を挟む理由はないし、これ以上、俺に気を遣わなくても……」
「何故、そういうことになるんだ」
 ぽかん、という表現がぴったりだった。僕もそうだが、話をさえぎったクレオの方も、呆れたような顔をしている。
「すまないが、話が見えない。リュージ、話の過程を飛ばしていないか」
「そうだなぁ。ええと、俺の世界でいう騎士っていうのは、だな。主君や愛する人を守りたがるものなんだ」
 実際の騎士がどうだったのかについては疑問の余地があるが、騎士道を地で行くクレオのイメージを表すには、この説明で間違いないだろう。
「それはこちらでも同じだが、それがどうした」
「だーっ、だからだな! お前としては、フリージオ王子を守りたいと思うんじゃないか。だけど、中身が俺だから、変に気を遣っちゃって、主君を守りたいって意思を押し殺しちゃってるんじゃないかってことを言いたいわけだ」
「ふむ。それで」
「だから、中身が俺であることは置いとけ。お前がどうしたいかだけを考えて、決めてくれれば良い! 変な気の遣い方するなってこと!」
 どこまで説明させる気なんだ、この男は。
 苛々しながらも、言葉を尽くして説いたつもりだった。その甲斐あってか、内容は理解してくれたようだが、疑問の色が消える度に、クレオの目が険しくなっているのは気のせいだろうか。
 軽く黙り込んだ後、クレオはぽつりと僕の名を呼んだ。
「少しは信じてくれ、と何度言わせれば分かる」
「……え?」
「俺がどうしたいか、そんなことは常に考えている。考えた結果、リュージの望むようにしたいと思っただけだ。それが間違っているというのなら、反省しよう。だが、そうじゃないだろう」
 初めて、クレオの抗議を真正面から聞いたような気がした。
 確かに今までも怒ったことはあった。けれど、それはあくまで、僕を案じてのことだった気がする。抗議もされたことはあった。けれどそれは、やんわりとした気遣い程度に感じるものだった。
 はっきりと怒りをぶつけられて、僕は大きな読み違えをしていたのだと自覚する。
 クレオは確かに優しいのだ。けれど、クレオ自身には自覚がない。優しくしたり、気遣ったりということは、彼にとって意識的な行動ではない。
 そこまではいい。
 つまり彼が優しいというのは、受け手側の感性であって、実のところ当人はかなり。
「自分を犠牲にしても、なんて殊勝なことを考えるのは、お前くらいだ。俺は、そんな事など考えない。どうしても譲れないことは、絶対に譲らない。どんな犠牲を払ってもだ!」
 言うだけ言って、彼は憤懣やる方ない様子で、部屋を出て行った。
 残された僕としては、そもそもの話が流されていることや、今後のことが気にかかったものの、とても呼びとめられるものじゃなかった。
 いや、僕も反省はしている。クレオを怒らせたのは、僕の失言だ。
 だけど、こればかりは、ごめん、とは言えない。
「勘弁してくれよ、これくらいは。これからの功績に免じて、さ」
 軽く胸を押さえ、僕は誓う。
「取り返してやるから、絶対に」
 クレオの望むものを、僕だけが手にする事が出来るかもしれない。わずかな可能性だけど、それが出来るのは、僕しかいない。
 僕だけが、彼になれる可能性を持っている。

 それは、死を受け入れることよりも、複雑なものだった。
 ただこの身体を手放すことよりも、受け入れがたいことだった。

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