誰かに、ここにいていいのだ、と言われなければ生きることさえ、ままならない。存在意義を証明しなければ、生きていくことさえ許されない。
 そんな生き方など、考えたこともなかった。
 周囲に愛されて、大切にされた召喚術師の王子様もまた、そういう星の下からは逃れられなかったのかもしれない。

 がさり、と靴が草を踏む音が聞こえる。その音に、ぴくりと反応する少年の肩が見える。その背に、声をかける。
「こんなところにいると、危ないぞ」
 振り返った少年がほっと安堵に顔を緩ませ、ある名を呼んだ。
「リュージさん」
 一瞬、戸惑ってしまう。とっさに、誰の名なのかと考えてしまった自分に、こっそりと苦笑いを浮かべる。
 だが、その沈黙を怒りと勘違いしたのだろう。彼は泣き出しそうな顔をうつむかせる。
「ごめんなさい、ぼくは……」
 ぐっと腕に抱き込めて、言葉を中断させる。この腕に伝わる、小さな温かい感触。顔を寄せると、ふわりと柔らかい髪の毛に触れた。
 森の精霊の、優しい残り香がする。
「すぐに気づかなくて、ごめん」
 こうして彼を抱きしめたのは、これが初めてではない。
 彼が宿屋に訪れ、僕がその背を追って飛び出したあの日。彼が僕に抱きつくことで、僕との接触を果たしたあの瞬間。
 あの時にもう、僕のすべきことの半分は終わっていたのだ。
 そしてもう半分もまた、この腕の中にいる少年が鍵となるはず。
 僕は腹の中で、そいつに呼びかける。

 ――さぁ、来いよ。

「風の魔女よ」
 核とは、人の遺した想いであり、妄執である。この世にある物質にまとわりつくそれらに、魔女は力を与え、呪いとした。
 今までは、全て何らかの物体だった。だから、気づかなかった。
 僕が彼に触れたあの時から、既に核は呼び起こされていたことに。
「リュージさ……」
 ふっと腕の中から、体温が消えた。身軽になった僕は立ちあがると、暗い森の方を振り返る。
「安心しろよ。ちょっと遠くに飛ばしただけだ」
 がさり、と草が重い音を立てる。闇から姿を現したそいつに、僕の心はわずかにざわめいた。
 けれども、それを押し殺して、彼をじっと睨みつけるに留める。
「さて、始めようか。死人がえり」
「俺は死人がえりではない」
「生者から見たら、大した違いはないさ。あんたも……俺も」
「違いないな」
 一歩、僕は前に出る。そいつはさり気なく、身を引いてみせる。
「私がここを訪れた時、ちょうどこの地方で地割れが起こった直後だった」
 一歩、一歩、森へと踏み込んでいく。そいつの背を逃さぬよう、僕は大股で後についていく。けれどもその差は、一向に縮まる気配を見せない。
 畜生。
 口汚く毒づいたのが聞こえたのか、彼はその場で足を止めた。
「ちょうど街道沿いのことだ。死者のほとんどは旅人だった。けれど、この村の者もかなり混じっていたんだ。その嘆きは、想像がつくだろう」
「禍を、誰かのせいにしなければ、壊れてしまうほどに、か」
 その黒衣に触れようとすると、するりと身を交わす。けれども、決して敵わぬほどの早さではない。僕は苛立って更に腕を伸ばすが、小さな動作で交わされる。
「ここで私は彼と会った。そして追われていたその子を匿った」
 僕は動きを止め、彼の言葉を待った。
 目の前の核は逃げるでもなく、かといって僕の手に触れさせてくれる訳でもなく、ただ淡々と話を続けるのみだ。
 とりあえず、今すぐ呪いを解くのは諦め、全ての話を聞いてみようと思った。
「しばらくは良かった。森の中でひっそりと、時が経つのを待った。けれどやがてここも安全ではなくなり、王都へと逃げようとする途中で、私は村人達に追いつかれて」
「死んだ……んだな」
「けれど、死にきれなかった。この状況を打開する手を打たないことには、俺はここを離れることが出来ない」
 そうして彼は思い付いてしまった。その為に、どうすれば良いのか。
 あの子にぶつけられる怒りの元を、断ってしまえばいい。
 僕は少し迷ったものの、あえて婉曲な物言いは避け、ずばりと尋ねることにした。
「だから死を消して、全てをなかったことにしたのか」
 彼は眉一つ動かさず、堂々と頷いてみせた。
「この町では、死人が生者の顔をして歩く。生者が存在を覚えている限り」
「存在を覚えている限り?」
「生者に存在を忘れられた者もまた、生者の顔をしようとする。けれどもその仮面を保つ理由がないせいだろう。すぐに剥がれてしまうのだが」
「それでも、死人がえりとなって生き続ける、のか」
 吐き気がしたのは、何故だろう。
 嫌悪感でもない。悲しみでもない。強いて言うならば、絶望かもしれない。
 死しても尚、人は平等ではいられない、という当たり前の事実が、無性に悔しい。そんな自分の甘さに、反吐が出る。
 打ちひしがれる僕に、その声は悪魔のような誘惑を吹き込んでくる。
「人が死を認識できなくなれば、誰も失うことはない。誰も悲しむことはない。そうすれば、いさかいなどせずに済む。なかなか、道理の通った話だと思うが」
 運が良かったのか、悪かったのか。ちょうど彼が願ったことを、白の魔女が叶えてしまったのだ。
 呪いという形ではあった。だが、それでようやく、あの子は命を繋げたのだ。
「この世界が、お前の理想郷だというのか」
「勘違いするな」
 冷ややかな声が、僕を現実へと呼び戻す。
「死から目を背けても、決して救われやしない」
「それをお前が言うのか」
 その質問をしたことを、すぐに後悔していた。
 同じような顔でも、浮かべる表情でこれほどの違いが出るものかと思う。
 僕はこんな繊細な表情など出来なかった。
 こんな、酷く悲しい笑い方を知らない。
「死者である俺は、もうこれ以上、あの子にしてやれることがない」
「じゃあ、あんたは何をしたいんだ。一体、この呪いの果てに何を……」
「話は終わりだ」
 ぐいと僕の手が取られた。その両手が、黒衣の男の胸元に触れる。
「さぁ、王子フリージオ。呪いを解いて、とくと見届けるがいい」
 王子フリージオ。その名を呼ばれた瞬間、自分に向けられた言葉だと認識する。
 見上げた目が、一つ頷いた。
「彼をそこまで苦しめてまで、この世界に守る価値などあるのか」

 ――迷いは、振り切ったはずだった。

 僕は召喚術師だ。この世界を守る為だったら、どんな犠牲も厭わない。
 自分はもちろん、誰かを犠牲にしなければならないのなら、この手を汚すのもやむを得ないことだと割り切ったはずだった。
 だけど、でも。
 この術が、こんなにも残酷な結果をもたらすなんて、あの時の僕はちっとも分かっていなかった。
 ちっとも、理解していなかったのだ。
「あ……」
 一歩、下がった足がずるずると何かに引きずられていく。地面から沸きあがる手が、足首をしっかりと掴んで離さない。
 死人がえりだ。
 術を、と結ぼうとした手が、だらりと力なく落ちた。
(生き延びて、何になるんだろう?)
 呪いを解けば、人々はまた死を認識する。
 それはただ、悲しみしかもたらさない。その悲しみはやがて怒りとなって、少年へと注がれる。誰にも、その連鎖を止めることは出来ない。
 どうしても、傷つかずにはいられない世界。
 背中から押さえこまれる形で、僕は地面に顎をつけた。そのまま、目を閉じた僕は、遠いところで誰かの声を聞いたような気がした。
「リュージ!」
 ふいに背中の重みが消えた。
「どうせ、こんなことだろうと思った」
 戸惑う僕を地面から引き剥がしたその人は、青の目に憤怒を浮かばせている。
「いいか、私は許さない」
 懐かしい、青色の瞳。
 怒る時も笑う時も、どこまでも澄んでいる瞳に、リオンやクレオ、そして僕がどれだけ勇気付けられたことだろう。
 その瞳が今、赤毛の召喚術師を映している。
 リュージを、映している。
「あんたの今は、フリージオ様の犠牲の上にある。それを無駄にすることは、絶対に許さない!」
 胸倉を掴んで、声を限りに叫ぶシェスタ。
 声は泣いているのに、決して涙は落とさない。それが、彼女なりの強がりなのだろう。
「……それはあんたにも言えることだろ」
 左手でゆっくりと手を振りほどきながら、僕は右手で紋章を描く。
「大地の魔女よ」
 そして、決められた動作を辿り、術を発動させた。

 死人がえりが消えていく中、黒衣の男だけがやや離れた位置に立っている。その姿を見た途端、シェスタが小さく息を飲んだのが分かった。
 僕にも何となく分かるが、相手はかなり強い。シェスタで敵うかどうか。
「ったく、こんなところにのこのこやってくるなんて、正気かよ」
「お前こそ! どうして、一人で危険なことをやろうとする!」
 噛み付かんばかりのシェスタに、こっそりと苦笑いをする。
 ゆっくりと近づいてくる黒いもの。それに合わせて、距離を取る僕ら。シェスタが剣を構え、焦燥の表情を浮かべる後ろで、僕はまた召喚術を編み上げる。
「シェスタ!」
 ぐいと距離を詰めてきたそれに、シェスタが身構えるが間に合わない。僕は彼女を突き飛ばすようにしながら、右手を突き出す。
「炎の魔女よ……」
 術を使おうとした刹那、僕の手に大きな手が重ねられた。その手の主は、印を紡いでいた指をさり気なく封じ、そっと耳元でささやく。
「必要ない」
 何が起こったのか、すぐには理解できなかった。誰かの腕に抱え込まれた僕は、ぬるりと青年の像が溶け、霧散していくのを、ただ呆然と眺めていた。
 背中に伝わる心音が、異常に早い。
 あれだけの立ち回りをしても、息一つ切らさなかった男だ。どれだけ急いできたのか、想像に難くない。
「クレオ」
「全てを委ねてくれ、とは言わない」
 すぐ近くでささやかれた声に、動悸が早まる。離れろ、と笑って振りほどけばいいものを、クレオが安堵のあまり動けなくなっているのを良いことに、僕はそのままでいる。
 あまりに近過ぎる距離で、僕はクレオの言葉を聞いていた。
「だが、少しは俺達を頼ってくれ」
 その一言があまりにも重くて、僕は頷くことも出来ず、ただ笑うことしか出来なかった。

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