再び、眠りについて、また目を覚ました時、クレオの姿はもうなかった。
 横になったまま枕元を探ると、置かれていた紙が落ちてきた。
 クレオの残したメモだ。
 外出の旨が、実にあっさりと記されているだけのメモだった。無断外出禁止、とは書かれているが、行く場所、戻る時間については、一切書かれていないという。
 あまりメモの意味がないような気がしないでもない。
 ぱたんと元の場所にメモを置くと、ふと手に布表紙の感触が伝わった。
 手探りでそれを引っ張ると、ばたんと厚い本が落ちてきた。
「本?」
 こんなもの、僕の部屋にあっただろうか。
 ぺらぺらとめくってみるが、別に大した内容は書いていない。装丁は綺麗だが、普段、城の書庫で見るようなものとは違い、絵がふんだんに使われている。
 どうも絵物語のようだ。
 小さい頃、妹に読んでやったおとぎ話や童話を思わせる、可愛らしいイラストと簡単な文章で構成されている。
 ぺらぺらとめくっていると、ふと気になる単語に出会った。
 ――黒い魔女。
 どくん、と心臓が脈打った。
 どこかで聞いた言葉だ。いや、それどころか、僕はこの存在を知っている。
 何故。
 焦りながら、僕は誘われるように、文字を読み進めていく。
 そこにあったのは、大体次のような話だった。

 この世界は、白い魔女と彼女を慕う大勢の魔女達に支えられている。けれど、実はこの中に入れなかった、もう一人の魔女がいた。
 それが黒い魔女。
 この世のありとあらゆる悪徳を背負った、この不吉な魔女を封じ込めることで、この世界は安定を保っていた。
 けれど、それは唐突に破られる。
 時は乱世、このセブンズゲートを統べる王が、悪い寵姫に騙され、この黒い魔女を解き放ってしまい、世界に七つの災厄が振りまかれることとなった。
 世界が混沌に落ちようとしたその時、王の娘であり、召喚術師でもあったフレデリカ姫が、己の命を賭け、異世界から勇者を召喚する。
 姫と同じ顔をした異世界の女騎士は、黒き魔女の力に打ち勝ち、見事この世界に平和をもたらし、この地を去っていく……

「なるほど、ね」
 これがフリージオ王子の行なった召喚術なのだろう。
 かつて、その術を執り行ったのは、王の娘であるフレデリカ姫。彼女の命と引き換えに、その身体に召喚された異世界の魂。
 同じ顔をした、というのは、つまりはそれがフレデリカ姫の身体だったから。
 最後はめでたしめでたし、でこの話は終わっている。
 フレデリカ王女の死や、その異世界の人が既に死人であることなど、何一つ記されることなく。
 そして多分、フリージオ王子と僕の話もまた、ハッピーエンドで終わるのだろう。
 僕らのことを、誰も知ることなく。
 ぽん、と自身の胸を押さえてみる。
 脈打っている鼓動は、誰のものなのか考える度、申し訳ない気持ちと同時に、淡い嫉妬が胸に沸く。
 誰からも愛された、明るく聡明な王子様。
 僕はその記憶を少しだけ共有している。
 けれど、記憶を同じにしたとしても、やはり僕とは別人だ。僕ならそんなことはしない、そうは感じない、ということを、夢の中の彼はあっさりとやってのける。
(決着をつけろ、か)
 思わずため息が洩れた。
「ごめんな」
 誰に謝ったのか自分でも分からないまま、僕は手馴れた印を宙に描く。それが完成した時、僕の姿は宿屋の外にあった。
 昨日、僕に良く似た青年を見つけた場所だ。
 良く似た、といっても、彼の方が明らかに年上だった。僕がもう少し成長すれば、彼にそっくりになったのかもしれない。
 そんなことはあり得ないのだが。
 ぐるり、と周囲を見回し、彼の手がかりを探す。
 彼を探そうと思ったのには、全く理由がない訳ではない。あの時は動揺して、そこまで思い至らなかったが、落ちついて考えると妙なことがある。
 確かに僕は死人だが、今までそれを気づかれたことはなかった。あの本の記述を見ても、召喚術師を死人と表現した文は一行もない。
 考えてみれば、僕は厳密な死人がえりではない。確かに僕の肉体は既に滅んでいるかもしれない。だが、フリージオ王子の身体は、こうして心音を鳴らしている。この身体は、決して死人のものではないはずだ。
 だが彼は、一目で看破した。
 ただ、それだけといえばそれだけだが、何となく引っかかるのだ。
 それに彼の顔を、鏡以外のどこかで見たことがあるような気がしてならない。

 元々、あまり人が通る道ではないようで、草をかき分けて痕跡を探すこと、それ自体にはてこずったものの、一度それらしいものを見つけてしまえば、追うのは容易だった。
 真新しい、くっきりとした足跡が一つ。
 靴の大きさ、歩幅から見て、青年のものである可能性は高い。
 まずは彼が去っていった方向を追ってみた。
 けれど、これはあまり上手くなかった。すぐに人の多い通りへと出てしまったようで、足跡が途中から分からなくなっていた。
 次は、来た道をさかのぼる。
 こちらは道なき道を通ってきているおかげで、何とか辿ることが出来そうだ。
 もし人に見られたら、怪しまれることこの上ない姿勢で、地面の痕跡をたぐっていく。いくつかの茂みをくぐり、木の根をまたぐ。
「あれ?」
 ふと顔を上げたところで、僕はあることに気づいた。
「あの窓、確か……」
 やや遠くに見える、宿屋の窓。その中に、僕が泊まっている部屋にあったものと同じカーテンの柄を見つけた。
 くるりと辺りを見回せば、あの部屋から臨む風景とちょうど一致する。
「彼は、裏手から回ってきたのか」
 そこで、ぱっとひらめいた光景があった。
「あ……は、はは」
 答えの馬鹿馬鹿しさに、思わず乾いた笑いがもれた。
 笑わずにいられるか。僕はあんなにはっきりと顔を見ていたくせに、場面の異様さに気を取られて、あの時にはちっとも気づかなかった。
「お兄さん?」
 背後から急に声をかけられ、僕はぎくりと振り向いた。
 そこには今、思いを巡らせていた相手が立っていた。笑いかけようとして僕は、初めて彼の名を知らないことに気づいた。だから、ひとまずこう言っておく。
「やぁ、ボウズ」
「お兄さん……具合悪いの?」
「え?」
 ずばりと言い当てられたショックで、とっさに言葉が出なかった。少年は軽く背伸びすると、僕の額にその小さな手を当てる。
「熱が、あるんだね。ちゃんと寝てなきゃダメだよ」
「いや、大したことじゃない。もう下がってきたところで……」
「ダメだってば!」
 むきになった少年に、驚かされる。そんなこちらの表情を見、彼ははっと我に返ったようだった。急に萎縮して、声を小さくする。
「無理をして……もし、もっとひどくなったら、そのまま死んじゃうかもしれないんだよ。もっと身体を大事にしないと」
 僕の腕を掴む力が、ぎゅうと強くなった。
「そうじゃないと……」
 こちらの服を握り締めたまま、うつむいてしまう。ぽつん、ぽつんと地面に小さな円が描かれるのを見、僕はそっと彼の頭に手を置いた。
「そのくらいで泣くなよ。男の子だろー」
 わしゃわしゃと髪をかき回してやると、彼はくすぐったそうに首を振った。だが顔は上げず、必死に腕で顔をこすっている。
「だって……だって、もし」
「分かったよ。今日は大人しく戻るから」
 降参と両手を挙げて、僕は宿屋の方へと身をひるがえし、改めて、彼の腕を引く。
「この前の話の続き、最後まで聞かせて欲しいんだ」
 少年は勢い良く頷くと、僕の手に掴まって、とことことついてくる。その様子がまた危なげで、ついもう片方の手を添えたくなる。
 僕は妹しかいないから良く分からないが、弟がいるとはこういう感じなのだろうか。
 とっさに僕が良く知る兄弟の図を思い浮かべ、何か違うな、と首をひねった。多分、幼い頃のクレオには、手を差し伸べたいと思わせるような愛らしさは既になかったんじゃないかと思う。
「お兄さん?」
「ん? ああ、いつまでもお兄さんってのも変だよな。俺の名前はリュージ。ボウズは?」
 何気ない質問のつもりだった。けれど、少年の顔がみるみる内にこわばるのを見、思わず足を止める。
「ぼくには……名前、ないんだ」
「なに?」
 僕が連想したのは、名前が消えていく呪いをかけられた町のこと。だが、少年はまるで僕の考えを読んだかのように首を左右に振ると、その理由をこう説明した。
「ぼくは、いない子だから」
「……どういうこと?」
「分からない。ただ、多分ぼくは人間じゃないんだと思う」
「そんなバカな……」
 少年は人間だ。召喚術を使えるのは、人間に限ったことではないが、彼がまとう気は見間違えようがない。
 確かに強い気だ、けれどあくまで、人間のものだった。
「でも、人間の子だったら、親がいるはずでしょう? ぼくは生まれた時から、ずっと森で一人だったよ」
「それは……」
 思わず言葉を失う。
 以前読んだ、召喚術師に関する本の記述を思い出した。僕の手の中にある小さな掌を、自然と強く掴んでしまう。
「リュージさん。どうしたんですか」
「お前、俺と一緒に来る気はないか」
「え?」
「ここにいても、そんな扱いを受けるんだろう? それなら、俺と一緒に来ないか。ちゃんと名前もつけてあげるし、お前の居場所も保証される」
 唐突な申し出に、彼は目を白黒させた。そして、ぺこりと頭を下げる。
「ありがとうございます」
 でも、と彼は首を横に振った。
「ぼくには、どうしてもここを離れられない理由があります」
「それは、恋人のことか?」
 少し突っ込み過ぎた問いかけ。けれど彼は、不快感は見せず、ただ微笑む。
「恋人じゃないかもしれません」
「じゃあ、どんな関係?」
「ええっと、恋人とは言えないかもしれないんです。でもその人は、いない子だったぼくを、初めて気にかけてくれた人だから。あの人を置いて、ぼくだけ……」
「じゃあ、そいつと一緒に来ればいいじゃないか」
「それは出来ないんです」
 その淋しそうな笑みが、それ以上の誘いを封じてしまう。
 これ以上、僕に何が言えたろう。
 沈黙したまま、ちょうど宿屋の入り口までやってきた時、ふと繋いでいる側の手がちりりと熱くなった。
「えっ?」
 少年もまた、ぴくりと肩を震わせる。手を放す間もなく、二つの力がばちりと弾けるのが分かった。
 大きな力で飛ばされる瞬間、僕が感じたのはいつもと同じ、魔女の力だった。
「そんなバカな……!」
 印を結んでもいないのに、どうして。



 宙に放り出され、どしんとケツから着地する。
「いってー……」
 まともに腰を打ちつけ、あまり人には見せたくないような格好で起きあがった僕は、自分が置かれた異常な状況に気づいた。
 僕がいるのは、ちょっとした高台だった。そこから見下ろした先に、またあのおぞましいものが蠢いている。
「また、死人がえりかよ」
 はっと周囲に注意を向けるが、僕以外の気配はない。
 じゃあ、あの少年はどこへ飛ばされたんだ。
 焦って身を乗り出した僕は、地上に溢れた死者達の中に、三つの姿を発見した。
 一つは昨日の、隆二に似た、黒服の男。二つ目は、その男にしがみついている少年。
 だが、その二人からは離れた位置にいる三人目が問題だった。
 少年に比べれば力強く、けれど男と比べると少し小さくさえ見えるその姿。美しい金髪を振り乱し、必死に死人がえりと応戦しているのは、僕の良く知った人物。
「何で、シェスタがここに……」
 頭を抱えている暇などない。
 少年は男に抱えられていて、死人がえりの攻撃からは守られているものの、とてもそのやり取りは穏便に見えない。
 どう見ても、嫌がる少年が攫われかけている図だ。

 だけど。

 ちらりとシェスタの戦況を確かめる。
 確かに彼女は強かった。きつく結ばれた金髪が、風をびゅんと切る度、一体が地に伏している。
 だが、その動きにはとても余裕がない。
 裂帛の気合と共に繰り出される刃は、一つ一つを確実に仕留めてはいるが、一向に押し寄せる波が弱まる兆しがない。
(けど、大丈夫だよな)
 女性とはいえ、シェスタは騎士だ。それに比べ、少年は力こそ持っているが、まだ自在には操れていない。優先度を考えるまでもないだろう。
 そう割り切って、召喚術を編み始める。
 だが、どうにも気になって、シェスタの方からも目が離せない。
 術が完成する、ちょうどその時。
 一体と組み合うシェスタの背後に、死人が迫るのを見た。彼女の反応が遅れた。
「……くっ!」
 光で描かれた印を、右の拳で打って術を発動させる。
 ばさり、と僕の後ろに転送された人間には目もくれず、僕は次の術に取りかかった。
 後ろで何か喚いているのが聞こえたが、構っている余裕はない。とにかく早く、この死人がえり達を片付けなければ、まだあそこに残されている少年たちに危険が及ぶ。
 だが、この召喚術はややこしい。おぼろげな記憶を必死に辿りながら、僕はその存在に呼びかける。
「大地の魔女よ、この地に平和を」
 空に複雑な印を描き、右手でぐっと握りつぶすのと同時に沸きあがる高揚。
 いける。
 その確信を力に、僕は最後の鍵を口にした。
「――そして彼等に、安息を」
 地面が青く光った次の瞬間、眼下の光景は一変していた。
「はぁ……」
 軽く額を拭う。ぐらりと視界が揺れたのには気づいていたが、早く少年を探さなければ。
 丘から降りようとすると、
「待って!」
 ぐっと腕を掴まれ、危うく転びかけた。
「何だよ、さっきからうるせーな」
「それはお前が話を聞かないからだ!」
「今、取り込み中なんだよ。恨み言なら、後でまとめて聞くって……」
 うるさい相手をなだめながら、ふと僕はあることに気づいた。
「いない」
 少年達の姿は、既に消えていた。
 逃げたのか、どこかへ行ってしまったのか。
 不安は残るものの、あの少年に危害が加えられる可能性は低いように思う。彼が言う、大切な人というのは、おそらくあの青年のことなのだろうし。
「おい、人の話を聞け!」
 僕の思考は、後ろで喚くシェスタに遮られた。ああくそ、と頭痛を堪えながら、僕はくるりと彼女の方を向く。
「あーはいはい、分かったよ。で、何」
「何故、わたしを助けた」
 じろりと睨まれ、僕はそっと肩をすくめた。
「助けた? 何の話」
「とぼけるな。ここに引き寄せたあの術は、確かに召喚術だった」
「それはだな、別のヤツを助けようとして、コントロールを間違っただけだよ」
「そんな間違え方が出来るものか」
 やっぱり、そういう嘘は通じないか。
 どう誤魔化すか思案していると、シェスタはますます不快げに眉をひそめた。
「恩を着せるつもりなら、相手を間違っている」
「ま、そのつもりなら、確かにお門違いだな。あんたに恩売ったって、大した見返りがあるとも思えない」
「じゃあ、何故だ!」
 彼女の大声が頭に響いて、耳鳴りが更にひどくなった。大げさに耳を押さえるふりをして、さり気なく額にかいた嫌な汗を拭いとる。
「うるせーな。俺はあんたみたいに、常に考えながら動いている訳じゃねーんだよ。ただの気まぐれ」
 適当に身体を揺らす仕草をして、僕は丘を降りていく。
 目の前がぐるぐる回る。すぐにも飛んで帰りたいところだが、とても術を使えるような精神状態じゃないのだ。
 それでも、後ろから泣きそうな顔で追ってくる騎士に、弱みは見せられない。

 何故かって、そんなの決まってる。
 女性を見捨てることなんて出来ないじゃないか。
 馬鹿にしてる訳じゃない。現に、最初は少年を優先しようとしたんだから。
 でもやっぱり、あそこでシェスタが死ぬような事があったら、僕は自分を許せないだろう。
 目の前が霞む。ぼやける視界の先に、少女の姿が浮かんだ気がした。
「……どうして!」
 細い手が、すがるように僕の腕を掴む。
「死んでしまったら」
 悪い、シェスタ。実は僕もちょっとだけ、胸の内で毒づいたことがある。
 いなくなれ、とか、くたばれ、とか軽い気持ちで吐いてしまう毒。本気で思ったわけじゃないけど、でもそれが実現してしまったら、きっと。
「謝ることだって、出来なくなるだろう」
 その言葉を思い出して、後悔する。
 だから、僕は。

 急に足元がずるりと崩れる感覚がした。
「リュージ!」
 転んだ、と思った瞬間、誰かに抱きとめられていた。
「……悪い、シェスタ」
 カッコ悪い、と自嘲しながら上を見。
「残念だったな。シェスタでなくて」
 ぬっと覗いた予想外の人物に。

 ――ごめん、クレオ。

 つい、気絶してしまいました。

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