夕餉の席は、最悪だった。
 手始めに啜ったスープがひどく味気ないのは、食事のせいではない。かちゃん、とスプーンらしき道具を落とした瞬間、向けられた眼差しの鋭さに、思わず息を詰める。
「落ち着きのないことだな。それとも、それは異世界の習慣なのか?」
 その言葉に続けて、金属音が響く。
「すまない」
 涼しい顔で落としたスプーンを拾うクレオ。
 一瞬、わざと投げたように見えたのだが、僕の気のせいだろうか。
 気のせいであって欲しい。
「クレオ」
「何だ」
「それは私への当てつけよね」
 シェスタが顔を引きつらせて、席を立ったのが見える。
 やっぱり気づいた。
 当たり前か。彼女は剣士なのだから、動態視力だって悪くないだろう。僕にも見えたものが、彼女に分からないはずもない。
 だが、横の男はしれっとした顔で言う。
「何のことだ」
「おいおい……」
 僕は頭を抱えた。次に続く事態が容易に予測できる。
「とぼけないでちょうだい!」
「食事中に声を張り上げるのは、無作法ではないのか」
「貴方に作法のことを言われるとは思わなかったわね」
「心外だな。戦場以外では、到って行儀の良いつもりだが」
「つもり、でしょ」
 刺々しい会話を耳に入れつつ、新しいスプーンを持ってきた少女に礼を言い、スープを啜る。
 味がしない。何だか水を飲まされている気分だ。
 いや、味はついているのだ。だが、舌が感じた刺激が、そのまま味覚として脳まで伝わらない。
 つまり、食べた気がしない、ということだが。
 終止、険悪な空気を漂わせる二人の横で、僕はただひたすら縮こまり、味のしない食事を口に流し込んでいた。
「ごちそうさま」
 そそくさと席を離れると、クレオが続いて立ちあがるのが見えた。あわてて、手を振る。
「部屋に戻るだけだよ」
「しかし……」
「分かってる。もう一人で勝手な行動はしない」
 そう言うと引き下がったものの、クレオはあからさまに不安そうな顔をしていた。
 普段なら、過保護だよ、と笑うところだが、さすがに今回ばかりはそうも言えなかった。
 シェスタと一緒に宿屋に戻ってきた僕を迎えた、クレオの顔といったら、今までに見たことがないほど、硬い表情をしていた。
 最初はほっと安堵するに留まったクレオだが、死人がえりに襲われたと聞くに到っては、温厚な彼もさすがに堪忍袋の尾を切らしたらしい。
 何故、一人で行動した。召喚術は出来るだけ使うな、と言ったはずだろう。
 いつになく、きつい注意を受け、さすがの僕も反論する余裕などなく、ひたすら謝るしかなかったくらいだ。
 クレオがあれほど怒るのを見たのは、初めてだった。
 でもそれは僕に限ったことではないようで、僕に良い印象を持っていないはずのシェスタがあわてて取り成しに入ったくらいだから、やはり珍しいことなのだろう。
 ――召喚術。
 クレオの戸惑いも怒りも、そこに集約されている気がする。
 当然か、と苦笑がこぼれた。
 確かに彼は、これまで僕に怒りを向けたことはなかった。
 けれどそれは僕に好感を持ってくれているからではなく、クレオ自身の優しさから、そうしてくれているに過ぎない。
 フリージオ王子を失った悲しみや、理不尽に奪われた悔しさを、せめて僕の前では見せまいとしてくれている。
 なのに僕は、彼の傷をわざとえぐるようなことをしている。
(これは、僕が使うべき力じゃない)
 フリージオ王子の力。フリージオ王子の記憶。
 僕の中に流れ込んでくるそれらを留めることは出来ないけれど、だからといって、僕が勝手に使って良いという事にはならない。
 それが分かっているのに、どうして使ってしまうのか。
 どんな人にも、決して踏み込まれたくない領域がある。僕がしていることは、それを踏みにじることだ。
 部屋に戻った僕は、ごろりと寝台に転がろうとし、やめた。
 気晴らしをしたくても、何もすることがない。窓から外を眺めるくらいがせいぜいだ。
 本があれば、まだ気がまぎれるのだが。
 だが、僕は大っぴらに読書の趣味を明かしていない。
 どうやら本を読むのはフリージオ王子の趣味だったらしく、僕が本を広げていると、まるで王子のようだという人が絶えなかったので、何となく人前では避けるようにしていた。
 僕だって、別に読書家というほどではないのだし。
「あれ?」
 月明かりの下、小さな子供の影が見えたような気がして、ぴたりと窓に額をくっつける。
「……あの子、昼間の」
 暗いのに、危ないじゃないか。
 後を追いかけて注意したいところだが、しかしこんなことにクレオを引きずり出すのも申し訳ないし、また抜け出すのはもっとマズイだろうし。
 うなっていると、ふと小さな影に大きな影が寄り添うのが見えた。
(男?)
 緊張したのは、ほんのわずか。
 向かい合う男の笑みが見え、僕はふいに理解してしまった。
(ああ、なるほど)
 つまり、こういうことなのか。
 やや年が離れているような気がするが、その辺りは他人が言及することでもないだろう。
 次の瞬間、僕は顎を外すかというくらい、驚いた。
 二つの影が一つに重なる。月明かりの下、はっきりと見えた表情は、何というべきか、とても妖しい空気に満ちていて、顔を顔をつき合わせ、首に、腰に腕を回して……
 思わず、カーテンを閉めると、僕は部屋を飛び出していた。



 真っ直ぐ井戸に向かった僕がやったことと言えば。
 水ごり、だった。
 ばしゃっと頭に水をかけると、それだけで幾分か落ちついたようだった。何度か繰り返し、ようやく下半身をなだめたところで、僕は縁に腰を下ろす。
「っとになー……」
 世界は違っても、やはりこういう部分は変わらないらしい。
 さすがにあんな子供に欲情するなんてことは今までになかったことだし、いくら何でも僕の道徳心が許せないのだが、それでも身体の方に反応されると始末に困る。
 多分、女性恐怖症になった影響で、行き場をなくした衝動が、同性の、それも華奢な身体をした少年に向いているのだと思うが。
 冷静に分析したって、あまり良いことには思えない。
 しかしそこまで考えたところで、先ほどの二人を思い浮かべた。
(でもあれは……そういう関係だよな)
 それも僕とそう変わらない年に見えた。下手したら、僕より年上なんじゃないだろうか。
 少年を十二才と仮定して、相手を十八才くらいとすると、年の差は六つ。
 僕の結論。
「犯罪だな」
 少なくとも、僕の常識では。
 でも、考えてみれば、フリージオ王子とクレオだって、かなり離れているんではなかろうか。
 フリージオ王子は確か十九才。クレオの年は聞いたことがないが、見たところ、二十代半ばくらいだろう。
 やはり六つくらい離れている。
 けれど、年齢自体は大して問題視されていなかったようだし、この世界では大した障害でもないのかもしれない。
(やっぱり、僕は馴染めていないんだな)
 そんな小さなことでも、ちくりと胸を刺されるような痛みがあった。
 立ちあがり、部屋に戻ろうとしていた僕は、食堂の横を通り過ぎる時に、まだ彼等がそこにいることに気がついた。
 誰もいないホールに、聞き覚えのある声が響いている。相変わらず、棘のあるやり取りが続いているようで、知らずと苦笑いを浮かべてしまう。
「大体、クレオは変わったわ。王子があんなことになってから、貴方は時々、別人のような顔をする」
「変わってはいない、つもりだが」
「いいえ、変わったわ!」
 どん、と机を叩く音。小さく身震いしながら、僕はこそこそと階段の方へと回る。
「貴方はあれから、フリージオ様の名を口にしたことがなかった。まるで、封じ込めたいみたいに、ね」
 彼の名前が出たのを聞いて、少しだけ足を止めてしまった。
 早く行かなければ、そう思っているのに、何故か気になって、耳をそばだててしまう。
 シェスタの詰問が続いている。
「貴方にとって、フリージオ様は何だったの。あれほどの信を受けておきながら、貴方はすぐにあの方のことを忘れて」
「忘れたことなど、一度もない」
 強い否定だった。
「フリージオ様は、生涯、俺の主君であらせられる方。たとえあの方が、二度と俺の前に姿を現すことはないとしても」
 その誓いは変わらない、とクレオが断言するのを、僕は遠いところで聞いていた。

 分かっていたじゃないか。
 フリージオ王子がクレオに想いを寄せていたことも、クレオにとってフリージオ王子が特別な存在であることも、既に知っていたことだ。今更、驚くことなど何もない。
 それなのに、どうして僕は、初めて知ったかのように傷ついているのだろう。
 そもそも、そんな感情を、僕はまだ持っていたのか。
「……っ!」
 馬鹿じゃないのか。
 死んでいる、それ以上に辛いことなんか、何もないはずだ。一度死んで、もう何の希望も持たなくて良くなった僕が、どうして。
 傷つくなんて感情は、持てるはずがないのに。

 ふと、頬を撫ぜる風に気づいた。
「あれ……?」
 どこをどう駆けて来たのか、僕はいつのまにか、宿屋の裏手へと回り込んでいた。
 中途半端に開いた戸口が、きぃきぃと風に揺られる音が聞こえる。妙に耳障りに感じられ、僕はそこまで歩いていくと、戸をしめ直しておいた。
 ようやく、静けさが戻る。
 さて、と身をひるがえした僕は、ふと人の気配を感じた。しまった、と背後を振り返り、ふいに息を止める。
 ざぁ、っと落ち葉が風にあおられる。顔まで舞いあがる葉をうっとうしげにはねのけた腕は、決して太くはなかったが、女と見違えることがない程度の太さがある。
 細く柔らかい茶髪に、細くつり上がる目尻。眠たそうに見える一重まぶた。
 それだけでも、かすかな苛立ちを感じたが、それに加えて黒い詰め襟の服を着ているせいか、ますますムカツク面構えに思えた。
 さっさと立ち去ろうとした僕の背に、その低い声がかけられる。
「何故、泣いている」
「はぁ?」
 突然、そんなことを言われたのは、異世界といえど初めてだ。
 顔が気に入らなかったせいもあり、僕はついついそいつをにらみ返してしまった。
「何、寝ぼけたことほざいてんだよ。俺が泣いているように見える?」
 言ってから、我に返ったものの、既に手遅れだ。口にしてしまった言葉は取り消せない。
 だが、僕が危惧したような事態にはならなかった。その男は怒る代わりに、とんでもないことを言い出した。
「死んでからも、虚勢を張るのか、お前は」
 ぎくりと身体を強張らせる。そんな僕の反応に、彼は満足げににやりと笑う。
「違うか? 死人がえり」
「な、何で……」
 黒い影が近づく。逃げるように、僕は足を半歩引く。
「お前からは死の匂いがする」
 はっきりとそう告げられた瞬間、僕の思考が白く染まった。
「死者がこの世に留まる理由はただ一つ。この世への未練だ」
 まだ黒い影が何か言っている。いけ好かない顔をした、この青年が。
「憎しみからであれ、悲しみからであれ、死人がえりはこの場所に心を遺しているもの」
 何を言っているんだ、こいつは。
 したり顔で、見当違いのことを語り続ける道化に、僕は笑い出しそうなのを堪えるのに必死だった。
 何を言っているんだ、この大馬鹿野郎は。
「お前を泣かせているものが、この世とお前を繋ぐ接点となっているはず」
 触れようとした手が、ぴたりと止まった。
「あの男か?」
 その問いかけに、再度ぎくりとさせられる。
 僕は恐る恐る振りかえり、宿の裏口のところに立つ男の姿を見つけた。
 その一瞥に、射竦められる。
「決着をつけろ。お前自身の手で」
 僕は背中で、そいつの冷たい忠告を受けとめる。
「そうしなければ、お前は永遠にこの世をさ迷いつづける事になるぞ」
 黒衣の男が去っていく。僕は振り返ることなく、宿屋の方へと向かう。
 彼はずっと無言のままだった。僕もまた、弁解する気にもなれなくて、何も言わずにその前を通ろうとする。
 クレオとすれ違う、その瞬間。
「……っ」
 不意に、ぐっとこみ上げてきたものがあった。それを見せまいと足早に行き過ぎようとした腕を、誰かが強く引き止める。
「リュージ」
 低い声で呼ばれた、僕自身の名前。
 僕はその手を更に強く振り払おうとした。けれども、力が入らない。
「……んでだよ」
 言っては駄目だ、と心が強く留めようとするのに、もう揺れ始めたそれはどうしようもなく、一つの感情へと向かおうとする。
 先ほどの黒衣の男に、どうして嫌悪感を持ったのか。僕には良くわかっていた。
 彼は似ていたのだ。
 見せないでくれ。もうこれ以上、考えたくない。
 ずっとそう願い続けていた事、僕が絶対に口にするまいと思っていた事を、彼の姿はまざまざと思い知らせてくれた。
 彼に似た人を、僕は良く知っていた。
 黒の学生服を着て、鏡の前で格好つけていた、あのいけ好かない顔をした奴を、僕は毎朝ずっと見つめ続けてきたのだから。
「リュージ!」
 目の前が急に暗くなった。
 遠くなっていく声を聞きながら、このまま二度と目が覚めなければ良いと、そんなことさえ考えていた。



 あの時、何かを感じたんだ。
 召喚術師としての力が、彼女の訪れを告げた。
 そのことが、何の意味を持つのか分からないまま、僕はクレオを連れて、エルネスト兄様の部屋に向かい。
 そこで、彼女に出会った。

「来るな、フリージオ!」
 扉を開けた途端、兄上の声がした。僕は予感が的中したのを悟り、クレオをちらりと振り返る。
 彼が剣を抜いたのを確認し、僕は扉を開けた。
 けれど、扉を開け放った僕は、ぽかんとしてしまう。そして、つい赤面してしまった。
「グローリア義姉様」
 そこにいたのは、エルネスト兄様とその婚約者、グローリア様の二人だけだった。
 杞憂だったか、と気を抜いたのがいけなかった。
 次の瞬間、ふいに全身が総毛だつ。
「フリージオ様!」
 背中で、冷たい鋼の音が鳴った。いつのまにか、後ろに回ったグローリア様。彼女と対峙しながら、クレオが僕をかばうようにして、剣を構えている。
 どうして、とクレオが鋭い声で訊ねた。
「何故、こんなことを」
「何故?」
 冷たい笑みを浮かべたグローリア様は、いつも通りに見えた。
 理知的な風貌そのままの才媛。同じ召喚術師として、何度も話す機会に恵まれたが、この人が温かい表情を向けることは滅多になかった。
 けれど、次の言葉には、驚かされる。
「貴方には分からないでしょうね。愛され続ける貴方には、決して」
 張り付いたような笑みを浮かべたままのその人に、僕はふいに別の影を見てしまった。
「グローリア?」
 だが、エルネスト兄様は分かっていない。不審そうな顔をしているものの、呑気に近づこうとした。
「エル兄、離れて!」
 警告を発しながら、僕は印を描く。
 今まで一度も使ったことのない召喚術だ。成功するかも分からない。
 だが、僕の推測が正しければ、目の前にいるものは、とんでもない化け物だ。それに匹敵する存在を、僕は一つしか知らなかった。
 描いた印が、禍禍しい闇を導く。
「黒の魔女よ、僕に力を!」
 闇に秘せられた存在。この世から追いたてられた災いを全て呑み込む、漆黒の女神。
 暗く淀んだ力が、ぐるりとグローリアを包みこむ。
 常人には、存在することさえ許されない空間。その中に閉じ込められていながら、彼女は平然とこちらを見つめていた。
「さすがね、全てに祝福された王子。あの呪わしい女の加護まで得ているなんて」
「お褒めに預かり、光栄……というべきなのかな」
 冷たい汗が背筋に流れる。笑ってみせたのは、精一杯の虚勢だ。
 震え出しそうな足を必死に押さえながら、僕はその恐ろしい存在の名を呼ぶ。
「世界の全てを統べるもの、白き心を持つ気高き魔女よ。なにゆえ、貴方がこの場所に?」
 エルネスト兄様が、小さくうめいた。分かっていないのは、その手の知識がないクレオだけ。
 白の魔女。
 魔力の源、この世界の根源を司る”魔女”達を束ねるもの。
 聖なる女神とも呼ばれる彼女は、美と正義を愛し、人々に公平な愛をふりまく最高存在としてあがめられてきたはずのもの。
 しかしそんな彼女が何故、人であるグローリアを乗っ取り、僕等を殺そうとするのだ。
 僕の問いに、彼女は謎めいた笑みでささやき返す。

 ――時代が、私を呼んだのよ。

「この世界には、澱みが出来てしまった。風が巡る事もなく、水が流れる事もない、暗く深い泥の底が」
「何を言っているのです。それが、グローリア様とどういう関係が?」
「理解できないでしょうね」
 追いすがる僕に、彼女がくれたのは侮蔑の眼差しだけ。その冷えた指先が、裁きを下すかのように、僕へと向けられる。
「貴方は汚泥へと追いやる側の人間。そんな貴方に、このグローリアという娘の心は、決して分かりはしない」
「僕が……?」
「私は世界を清算する為に来た。再び、この世界を白く穢れのない場所へと戻す為に」
 するりとその白い腕が天を指す。薄い唇が、わずかに開かれた。
「呼ばれた」
 全ての時が、止まったかのように見えた。
 天井が崩れ、瓦礫が雨のように降り注ぐ。その中で、エルネスト兄様は僕の方を向いて、フリージオと叫び、ちょうど兄様と僕の中間にあたる距離にいたクレオは、僕の方へとその腕を伸ばし、思いきり部屋から突き飛ばし。
 目の前が、急に暗くなった。
 がらがらと崩落していく音をどこか遠くで聞きながら、僕は必死に呼びかける。

 魔女よ、黒き魔女よ。
 どうか僕の一番大切な人を守って――!

 気づいた時、目の前には、泣きそうな顔で僕を介抱するその人がいた。
「……クレオ?」
「ご無事、ですか……フリージオ、様」
 良かった、と安堵したように笑い、そしてそのままぐらりと倒れてしまう。
「クレオ!」
 あわてて駆けより、怪我の具合を確かめる。
 あちこちに血が滲んでいるが、ひとまず呼吸はしっかりしている。ひどく身体を打ち付けた様子なのが気にかかるが、命に別状はなさそうだ。
「王子! 今の音は……」
 遅れて駆けつけてきた家臣達にクレオの手当てを任せ、僕は部屋の中に戻ろうとした。
 けれども、入り口で立ちすくんでしまう。
「これは……」
 瓦礫の山。
 一歩、一歩、中へと踏み進む。
「フリージオ殿下! お怪我をなさって……」
 後ろの声は聞こえていたけれど、返してあげる気にもなれなかった。
 最後に見た場所。最後に見たその人を思い出しながら、僕はその場所にある瓦礫を押し退けていく。
 大丈夫だ。だって、クレオも無事だった。
 けれど、やっとのことで抱えあげた身体は、僕の手には余るほど重いものだった。
「エルネスト、兄様」
 まだ温かいその胸に耳をあてて、口元に、首筋に指をあてて、閉じられた目蓋を押し広げて。思い付く限りの方法を試し、可能性を探す。
 でも、どの結果も、僕に残酷な答えしか与えてはくれなかった。
「エルネスト兄様っ、エル兄――」
 泣けなかった。どうしても涙が出なかった。
 あの時、僕は黒い魔女に願ってしまったから。
 ――僕の一番大切な人を守って。
 魔女は確かに、力を貸してくれた。一番大切な人を、確かにこの世へと留めてくれた。
 一番、という位置。
「エルネスト兄……」
 第二王子という難しい位置にいながら、陛下の補佐に徹し、末王子である僕に惜しみない愛情と加護を授けてくれた人。僕の大切な兄。
 今まで、兄への愛情を忘れることなどないと、傲慢にも信じ込んでいた。
 なのに極限の状況で、僕が選んだのは、この人ではなく。
「ごめんなさい」
 僕は選んでしまった。
 自分の一番を、選んでしまったのだ。



 泣きたくなるような夢を見た。
 胸が潰れそうなくらい、悲しい夢だった。

 目を開けると、心配そうなクレオの顔があった。澄んだ黒の瞳が、やや痩せて、たくましい顔立ちになった僕を映している。
「クレオ……」
 そっとその頬に手を伸ばしてみる。
 彼は少しだけ、戸惑う素振りを見せた。けれど、以前のようにさり気なく身を退くようなことはせず、なすがままになっている。
「君は、本当に変わらないね」
 そう呟くと、その黒い目が寂しそうに微笑んだ。
 時が経ったんだね。
 そのことを、僕は痛いほどに思い知る。
 初めて会った時のクレオは、真っ直ぐな目をしていた。
 辛いこと、悲しいことをそのままぶつけてくる。それを封じ込めてしまうようなことはしない。あの時のクレオは、そういう少年だった。
「クレオ。約束して」
 僕を惹きつけたこの黒い瞳に、儚い願いを託す。
「君の目に映すこの世界が、限りなく美しいものでいられるように、その為の努力を惜しまないって」
 変わること、失うこと。それは確かに寂しいことだけど、それもクレオが重ねていく季節の一枚になる時がやってくる。
 だから、どうかクレオは。
「たとえこの先、僕が君と同じ風景を見ることなどないとしても」
 君が見る世界はきっと、僕の魂まで届くはずだから。



 それは、苦しい夢だった。
 幾度となくうなされて、寝返りを打った。その度に、誰かがそっと掛布を直してくれた。その手を掴んで、僕は何かを訴えた気がする。
 言ったことは思い出せない。けれど、その返答だけは鮮やかに残った。
「大丈夫だ」
 ぽんと肩を叩いてくれる手が、幼い頃、風邪をひいた自分を看病してくれた手に重なるようで、ふいに泣きたいような衝動にかられた。
 あの手を最後に感じたのは、いつのことだったろう。
 寂しいとか、苦しいとか、素直に言うことが出来たのは、何才までの話だったろう。
 気づかない内に、そんな柔い時期は終わっていた。それを懐かしむような年になる前に、僕の時間は止まってしまった。

 額にあてられたタオルの冷たさに、急に覚醒させられる。
「すまない。起こしてしまったか」
 クレオがこちらをのぞき込んでいる。身体を起こそうとしたが、彼に止められる。
「もう少し、休んでいた方が良い」
「俺……」
 声がわずかにしゃがれていた。
 記憶を辿ろうとすると、鈍い痛みが起こった。自分のものでないような、おかしな感覚に苛まれる。
 一番、確実な最後の記憶は。
「俺……確か、戸口のところにいて」
 倒れたのか。
 傍らのクレオを見上げるが、彼ははっきりと答えを言うことはなかった。ただ、ぽんと掛布を叩く。
「医者の見立てによると、風邪だそうだ。しばらく安静にしていれば、すぐに良くなる」
「でも、それじゃあ死人がえりのことは……」
「それは気にしなくて良い」
 僕の言葉を遮って、ただ休めとだけ言う。こんなクレオを見るのは、初めてじゃない。
 あの竜の舞う谷でも、僕は同じように倒れ、しばらく行動不能となった。
「……悪い。あんたにばかり押し付けて」
 何でこうも、情けないのだろう、自分は。
 うなだれる僕に、彼はあきれたようにため息をついた。そしてしばらく、何か思案していたようだった。
「前から一度は言わなければならない、と考えていた」
「うん」
「それは逆だろう、と俺は思うんだが」
「……は?」
 妙な声をあげてしまった僕に、クレオはまた、ため息をつく。そしてゆっくりと、噛み砕くように補足してくれた。
「だから何故、リュージが俺に押し付けることになるんだ。俺達が、リュージに押し付けているんじゃないのか。これは本来、リュージには関係のないことだぞ。何で、逆になっている」
 関係ない。
 分かっている。クレオなりの思いやりだということは。
 けれどその言葉は、今の僕には酷なものだった。

Back//List//Next