泣いたのだそうだ。
 まだ幼く、両手にすっぽりと収まってしまうような、その小さな身体を抱き上げた騎士は、その場で人目もはばからず、泣いたそうだ。
 それを見ていた騎士も、沈痛な面持ちをする中、一人エルリックだけは表情を動かさなかったという。
「ランドルフの追放が決まった時、執行者となったのはエルリックだったんだよ」
 そう語った壮年の騎士は、石碑を綺麗に掃除しながら、僕の質問に付き合ってくれた。
「ランドルフの除名騒ぎそのものが、間違いだったんだと今なら分かる。けれど、当時はそれに気づく冷静さが残ってなかったんだ」
 それくらい、悲しかったのだという。
「あれは王都からやってきた反逆者達との戦だった。そして俺達竜騎士は、その討伐にあたる際に、大きな失態をやらかし、味方に多大の被害を出してしまった」
「ああ――」
「指揮を取ったのは、ランドルフだったんだ。団長のエルリックは、営倉行きになっていたからね」
「え、営倉って……倉庫ですか?」
「ああ、王都からやってきたお偉いさんの作戦に噛み付いて、謹慎処分を食らったんだよ。その代わりに、大人しいランドルフが前線に立った」
 でも彼は失敗したのだ、と彼は遠い眼で言った。
「ランドルフは控えめ過ぎたし、命令に忠実過ぎた。この地の特性を知らない将軍の作戦を、そのまま遂行しようとしたんだ。これが失策だった」
 だから、損害を出した責任を、そして味方の憎悪を、全て彼が負うことになった。
「エルリックは」
「最後まで、反対したよ。進言など考えず、あの無能な指揮官を問答無用で営倉に突っ込むべきだったのに、それを迷った俺の判断ミスだ、責任は俺にある、と」
「すごい屁理屈だ」
「だから、ランドルフは追放を受け入れたんだ。あのままではエルリック隊長も、追放されかねなかったからな」
 そんな屁理屈を通す馬鹿がどこにいる。そう言いかけて、騎士の目に悟った。
 皆が、馬鹿になっていたのだ。それも、超ド級に。
 集団の狂気、ということがある。
 後から考えればあり得ないと、馬鹿馬鹿しいと思うようなことであっても、その時には気づかない。それが正義のように、盲信する。
 辛い時ほど、そんな魔に魅入られてしまうのだ。
「そういう事情で、あいつの家族からはひどく恨まれてたね。あいつは最後まで、ランドルフを庇っていたのにも関わらず、だ」
 決して、弁解はしなかったから、と男は言った。きっとそうだろうな、と納得する。
「だから、この場所でランドルフの息子が亡くなった時も……あいつが責められた」
「どうして、亡くなったんですか」
「病気、ということになっているし、事実そうなんだが」
「何かあったのですか」
 彼は一瞬、答えるのをためらった。ちらりと空を見上げ、重い口を開く
「雨の日だった。ここで、ランドルフの子供が穴に落ちているのが見つかった。こんなところだ、誰も通らなくてな。見張りの兵士が見つけた時にはもう、手遅れだった」
 雨の日だったのが、悪かったのだろう。
 半身を水に漬かり、じっと動けずにいれば、風邪を引く。まだ幼い、ろくに抵抗力もない子供なら、肺炎を起こすこともあるかもしれない。
 けれど、この世界にはそういう常識はなかったのか。
「どうして穴に?」
「子供同士のイタズラだよ」
「悪戯って言ったって、雨の中? やり過ぎじゃありませんか」
「そうだな。悪戯なら、やり過ぎだな」
 ざわりと胸が騒いだ。
 いたずらなら、と強調された部分が、やけに耳に残る。
「けれど、子供達にとっちゃ、やり過ぎでも何でもなかった。悪い奴を懲らしめる、くらいのつもりだったんだろう」
「悪い奴?」
 聞き返した後、なんとも言えぬ騎士の表情に、僕はああ、と合点した。
「父親が、追放者だからですか」
「嫌な事件だったよ。あの後、話を聞いた子供達の目が、ひどく満足げだったのが今でも忘れられない」
 急に、息苦しさに襲われた。
「でもな、一番やりきれないのが、子供達は自分でそう判断したんじゃないってことだ。親は、子供にそう教えたんだよ。あの子の父親は悪い人だから、一緒に遊んではいけないし、近づいてもいけない、と」
 そうだ、子供に善悪の正しい判断など出来ない。
 だから人を殺したとしても、未成年はまともに裁かれやしないのが僕らの世界。
「数年経った今、いや、今でなくたって、だ。自分が理由もなく、人を殺したという事実に、いつか気づく日が来る」
 やりきれない、と目の前の男は言った。でも僕は、胸中で願ってしまう。
 思いきり傷つけばいい。その重みに耐えられなくなって、心が折れてしまえばいい。眠れない夜を、うなされる生活を繰り返せばいい。
 だが、口にはせずに一礼すると、僕は来た道へときびすを返した。


 ああ、確かにやり切れない。
 伴侶と息子を失った女は、正気を失って、谷底へと身を投げた。
 そして盗賊にまで身を落とした男は、この地で子供の失踪事件が起きていることを知り、息子を案じるあまり、捕まることを覚悟でこの地に逃げてきた。
 その息子も、妻も、既にこの世にないことを知らずに。
「は、はは……」
 髪をぐしゃりとかき回し、僕は息を吐き出した。
「とんだ茶番だよ、閻魔様」
 もう沢山だ。さっさと地獄へ連れていってくれ。これ以上、こんな馬鹿げた話に付き合わされるのは御免だ。
「ひどい顔をしているな」
 その声に顔を上げ、僕は一瞬、下を向いた。
「そうかもな」
 分かっている。目の前にいるのは、エルリックの方だ。
 それでも、この良く似た顔を見ていると、クレオの事を考えずにはいられない。今一番、会いたくない人のことを。
 エルリックが近くを手で示してみせた。そちらに目を向けると、殺風景な台がある。
「何これ」
「椅子だ。庭で、適当にサボる為の」
「誰が作ったの」
「知らん。だが、勝手に作られたものだ。勝手に使って構わんだろう」
 そう宣言すると、どかりと腰をかける。苦笑しながら、その横を借りた。
 一瞬、気まずい沈黙があった。
「君がフリージオ王子ではない、ということは理解した」
「え?」
「召喚術を使ったろう。あれで分かった。フリージオ様とは、発想が全く違う。いや、あんな使い方をする召喚術士は初めて見た」
 どういう意味だ、と眉をひそめていると、エルリックが答えを口にした。
「君は補助の為に術を使ったな。防御でも、攻撃でもなく」
「あー……言われてみれば」
「それは、何故だ」
 そう聞かれても困った。特に考えがあって、そうした訳でもない。迷った末、結局、正直に答えておく。
「別に意識して、使った訳じゃない。何となく、風を止めればいいかなって」
「倒すのにためらいが?」
「ないとは言わないよ。俺は今まで、戦いとは縁のない生活をしてきたからね。だから、とっさに使ったのが、補助になったのかもしれない」
「とっさに、か。なるほどね」
 目を細め、エルリックは薄く笑った。
「……俺は昔、兄弟の縁を切る、と宣言したことがあった」
 唐突な話に驚いたけれど、続けられた言葉に合点がいった。
「フリージオ様が視察に見えられた時だ、あれを気に入られて、是非自分の近衛に、と所望された」
 エルリックは事情を知らないながらも、おそらく僕とクレオの微妙な位置に気づいている。だから、わざとその話を持ち出してきたのだ。
「おそらく、フリージオ様ご自身も気づいてはおられなかったと思う。けれど、俺には一目でわかった」
 ためらうエルリックに、僕は答えを知る。
「フリージオ王子は、クレオに恋を」
 彼は一つ頷くと、大きく空を仰いだ。
「俺もグラン家から反逆者を出すのは御免だからな。猛反対したよ。もし行くというのなら、兄弟の縁を切るとまで言った。グラン家を名乗らせないとも。それでもクレオは行くと言い張った」
「でも結局、仲直りはしたんだ」
「ああ、エルネスト様のお取り成しがあって、縁切りにまでは到らなかったが」
 笑いに苦味が混じった。濁した言葉の先を、僕は何となく悟った。
 クレオが、家を捨てても王都へ行くことを望んだ段階で、この人の中の兄弟関係は終わってしまったのだ。
 実際には切れなかったかもしれない。けれど、クレオからは簡単に手放せる程度の絆なのだと知った、その事実は消えるものじゃない。
 そして僕は、残酷とも言える問いを彼に投げかけた。
「クレオも、フリージオ王子を?」
「さぁな。無事だということは、何もなかったんだろう」
「ばれなかっただけじゃねーの」
「ふ、それは凄いな。あの馬鹿にも、他の奴に気取られない演技が出来たのか」
 そう言ったエルリックの表情は、いつもの人を食ったようなもので、彼自身どの程度本気なのか、非常に読めなかった。
「リュージ。あの馬鹿の、とっておきな馬鹿を、一つだけ教えてやろう」
「ん?」
「クレオはな、誰彼構わず優しいんだ。だから人に誤解を与える」
「それは分かる」
 思わず、力をこめて頷いた。瞬間、息苦しくなり、僕は適当に笑ってごまかした。
「罪作りな人だよ、クレオも」
「……それもあるが」
 ふと、エルリックの顔を、物憂げな影が過ぎった。
「あいつは馬鹿なんだ。誰か一人を愛したとしても、分かりやすく示すことが出来ないんだからな」
 そんな風にぼやく彼は、やはり弟を案じているのだろう。思わず、笑ってしまう。
 優秀過ぎる兄弟に、嫉妬してしまうのも事実。いつも先を行っていたつもりで、追い越されたのが悔しい、というみっともない気持ちも真実。
 どうせ自分よりも上手くやれるのだから、と突き放しておいても、気にかかってしまう。そんな自分が滑稽だと分かっているのに。
 それでも心配で、つい絡んでしまう。
「リュージ?」
 エルリックのことじゃない。
 それは、僕だ。

 もう声をかけてやることさえ出来ない、僕のことなんだ――



 夢を見た。夢の中の僕はまだ小さくて、自分の膝に乗りきらない本を一生懸命開きながら、ひらがなだらけの文章を追っている。
 その文章に、小さな手が乗っかった。僕はちらりと横を見る。
「るみ」
 ぱたぱたと手を動かして、本を叩く。本が傷むような気がして、僕は更に強くにらんだが、妹は一向にひるまない。
 必死に見開き、一挙一動さえ見逃さぬようにしている大きな瞳。
「だめだよ。さっき、おひめさまのご本を読んであげたろ。今日はもうおしまい」
 そう言ったが、彼女は不服そうに奇声を上げる。ばたばたと腕を振り回し、こちらの本へとへばりつく。
「だめ! これは男の子のご本なんだぞ。女の子が見たって、おもしろくないんだから!」
 手を叩いた瞬間、妹の目がこれまで以上に見開かれた。そして、顔をくしゃくしゃに歪める。
 続く抗議の泣き声に、すぐさま母親の拳骨が飛んできた。
「お兄ちゃん! 妹を泣かしちゃだめでしょう」
「だって、るみが、ぼくの本を……」
「お兄ちゃんなんだから、そのくらい我慢しなさい!」
 僕の主張はたった一言で拒否される。母親の手で取り上げられた本は、そのまま小さな妹の手に渡り、ぼくは泣きながら母親にすがりつくけれど、あっさりと振り払われる。
「ぼくは、おにいちゃんなんて名前じゃないのに……」
 妹が生まれてから、僕は隆二ではなく、お兄ちゃんになった。それが面白くなくて、時折、妹なんていらないと泣いたこともある。
(留美――)
 本を手に入れた時は満足げに輝いていた目が、僕を見つけた途端、ほんの少ししょげ返る。申し訳なさそうにこちらに本を向けた手。
 それを弾いてやりたいと思いながらも、必死にこちらの機嫌をうかがう様子がやはりいじらしくて、結局は二人並んで眺める。
 そうして二人、並んでいた頃もあったのだ。
 目覚めるまでのわずかな時間、幼い頃の僕はずっと本を手繰っていた。
 わずかな時を慈しむように、いつまでもいつまでも。

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