朝早く、崖の縁に立っていた僕は、そろりそろりと後退し、安定した位置に戻った。
「儀式は御済みか」
「うわぁっ!」
 突然、湧いた声に、僕は文字通り飛びあがった。振り返り、そっと胸を撫ぜ下ろす。
「な、なんだ。エルリックか。驚かせないで下さい」
「だから、君が縁から離れるまで、待ったじゃないか」
 宿舎から出てきたエルリックは渋い顔だ。彼なりに、昨日の出来事はショックだったようだ。
 だが、謝罪もしないし、要求もしない辺りが、クレオとは大きく違う点だろう。その代わり、面白くもなさそうに、ぐいと顎をしゃくってみせた。
「ここから落ちたら、まず助からないぞ」
「みたいですね」
「ずいぶん落ちついてるな、君は」
 エルリックの言葉に、僕は黙って両手をあげてみせた。そんな反応に、彼は目を細める。
「思う存分、怖がったほうが良いぞ。バカになる」
「は?」
「勇猛であるという事は、つまりバカへの一歩だ。恐怖を知らないし、結果を考えない。それがバカでなくて、何がバカだという」
 それはそうかもしれないが、身もふたもない。
 僕が苦笑していると、エルリックはつられて笑いながら、さらりと言ってのけた。
「話は大体、聞いた」
「え?」
「子供のことだ。言われるまで気づかなかったが、確かにおかしいことが沢山あったな」
 そう聞いて、ほっとした。エルリックの言っているのは、呪いの話の方だ。
 では、それ以外は。
 そんな僕の声が顔に現われたのか、エルリックは面白くなさそうな顔で答えた。
「何を恐れているのか知らないが、クレオはそれしか言ってなかったぞ」
「は、はぁ……」
 じゃあな、とすれ違いざまに、エルリックがささやいたその言葉を、僕は複雑な思いで聞いた。

 殿下でないという貴方の言葉、信じて良いのですね――

 確かに僕は、フリージオ殿下ではない。いくら身体が同じであっても、彼を知るほとんどの人間はそれを否定するだろう。
 だが同時に、この身体が、フリージオ殿下であることは否定しようもない。
 この顔は、この声は、失われたはずのその人を想起させるのに、中身は全く違う。その事実は、彼を知る人にどんな痛みを与えるのだろう。
 そこまで考えて、僕は首を振った。
 やめよう。僕にはどうにも出来ないことだ。
 宿舎の中に入ろうとした僕は、ふと庭の方へと歩いていく、少年の後ろ姿を見かけた。
(ライ?)
 まだ朝も早いというのに、どこへ行くのだろうか。
 それを言ったら、僕もそうなのだが、ライはまだ幼い分、どうしても気になってしまう。だが子供とはいえ、騎士としてきちんと仕事をしているライだ、僕などが心配するようなことは何もない。
「ああ、もう!」
 それでも、僕はつい後を追っていた。
 中庭に出ると、そっけない草ばかりに見える花壇の横を通り、藤棚のようなところをくぐりぬける。
 そこで、ライは足を止めた。つられて僕も、さっと近くの物影に身をひそめ、はたと気づく。
 普通に声をかければ良いのだ。隠れる必要なんてない。
 そう思い直し、声を出そうとしたその時、ふっと彼の姿が消えていた。
「――え?」
 あわててその場に飛び出した僕は、きょろきょろと周りを見回しながら、はてと首を傾げる。
 僕は今、何をしていたのだっけ。
 誰かを追ってきた。
 誰を?

 記憶が曖昧になる瞬間、弾けるように妹の顔が浮かんだ。
 ああ、そうだ。ライはちょうど、あいつと同じくらいの年だったから、余計に気にかかってしまって。
「嘘、だろ」
 そうだ、僕はライを追ってきたんだ。ここまで来て、急に消えてしまった。
「そんなバカな。だって彼は」
 ぴたりと動きを止めた僕は、そっと周囲を目で探った。
 不審なものといえば、目の前にある石碑だけだ。かがみ込み、彫られた文字に目を近づけた僕は、そっと首を傾げる。
「慰霊碑、か?」
 年号や固有名詞が多いせいか、何のことかさっぱり分からなかったが、おそらく戦でなくなった兵士達の慰霊碑なのだろう。文面がそんな感じだ。
 だがこれは、子供とは関係なさそうだ。
 僕はクレオに判断を仰ごうと、立ちあがろうとした。
 その時、石碑と手が触れた。
「あっ……!」
 しまった、と石碑を確認するが、特に傷がついた様子はなく、ほっと胸を撫ぜ下ろした。
 考えてみれば、いくらこんなところに放置されているからといって、触れたくらいで崩れるほど脆くはないだろう。
 それなりに手入れはされているようだし。

 宿舎に戻ろうとした僕は、藤棚をくぐろうとし、先客に気づいた。
「……おはようございます」
 軽く声をかけると、女性はにこりと微笑んで、静かに頭を下げた。長い髪が、首筋からそっと黒服の肩に落ちる。
 ちょうどエルリックと同じくらいの年だろうか。黒で全身を固めた姿は、僕からはまるで喪服に見えたが、この世界では多分、違うのだろう。
 第一、黒が喪になるのなら、クレオなど年中葬式だ。
 彼女の横を通り過ぎると、ふわりと芳香が鼻をくすぐった。思わず、くしゃみをしてしまい、そっと鼻を押さえた。
 ヤバイ、かなりオヤジくさい声をあげてしまった。
 顔を赤くしていると、くすくすと柔らかい声がした。振り返った僕は、照れ笑いを浮かべる。
 そこで、鐘の音が鳴り響いた。
「な、なんだ?」
 この世界で聞くのは初めてだ。面食らって、辺りをきょろきょろしていた僕は、彼女が真っ青な顔でうずくまったのを見て、あわてて覗きこむ。
「どうしました」
「鐘が……警鐘が、また」
 頭を抱えた状態で、彼女はがたがたと肩を震わせていた。
「また、彼等が攻めてくる……!」
 手を伸ばそうとして、ためらう。
 指が動かない。あと一歩が、後もう少しの距離が踏み出せない。おそらく、過ぎ去っただろう悪夢に怯えているその背中が、そのまま僕に重なる。
「リュージ、無事か!」
 クレオの声に、心底からほっとした。駆けつけてきた漆黒の騎士に、僕は出来るだけ平静を装って尋ねる。
「どうしたんだ、この鐘の音」
「いや、盗賊が出たんだ。この付近で」
「盗賊って……まさか」
 例の呪いと関係があるのか。
 だが、目だけで発した質問に、クレオは首を横に振った。
「それとは無関係だ。だが、捕まるまで、俺と行動を共にした方が良いだろう。巻き込まれたら大変だ」
「ああ……」
 頷いたものの、素直に受け入れがたい感情が胸をちくりと刺した。
 複雑に顔を歪めているだろう、僕を見て、クレオは不思議そうな顔をした。どうした、と訊ねられ、何でもないと答える。
 そんなやり取りの途中、ふと目を離した隙に、横にしゃがみ込んでいたはずの女性は、崖の方へと走って行く。
「あっ、ちょっと!」
 呼びとめたが、その声は届いていないようだった。舌打ちしていると、クレオはますます怪訝そうな顔になる。
「どうしたんだ、リュージ。一人で声をあげたりして」
「いや……」
 言葉をにごした後、僕はふとその違和感に気づいた。
「ひとり?」
 ああ、と目を瞬かせたクレオ。
 この反応を、僕は一度見た事があった。少年の姿、あの図書館での記憶。
 だとしたら、さっきの人は。
 駆け出した僕に、後ろからクレオの声が飛んだ。
「リュージ、俺の話を……」
「聞いてましたよ!」
 珍しく怒ったような彼の声に、僕は振り返らぬまま、だがはっきりと呼びかけた。
「だから、ついて来て下さい、クレオ!」
 言った後で、僕はあることに気がついた。
 そして、ああそうだな、と自嘲の笑みを浮かべてしまう。

 うっかりと敬語を使ってしまうのは、僕の方も同じなのだ、と。



 朝、エルリックと話した場所は、多くの騎士と竜でごったがえしていた。まごつく僕を、大きな手がこっちだ、と導く。
 つい、身体を固くしてしまったものの、僕は素直に彼の手を手繰って行く。
 彼に付き、すり抜けるようにして前へと出た僕は、風の鳴る音を聞いた。空を仰いだ僕の目に、谷間を舞う、緑色の鳥が映った。
 いや、鳥ではない。
 思わず、ため息が洩れた。あの、絵でしか見たことのない生き物が飛んでいる。
 遠目から見ると、片方の竜の動きは格段に違って映った。竜の素質か、騎手の技量か分からないが、もう一方と比べると明らかに動きが早い。
「兄さん」
「え?」
 ちらりとクレオを見ると、彼は近くの騎士に声をかけていた。妙にあわてている。
「何故、あの人が出撃しているんですか」
「え? え、ええと、それは……」
「エルリック以外、相手が出来ないからだ」
 最初に問われた騎士は、彼自身、ひどく戸惑っているようだった。すぐ横にいた騎士が、代わってクレオの問いに答える。
「ランドルフだよ、あれは。数年前に追放された」
「なっ……」
 クレオが顔色を変えた。多分、知っている人なのだろう。もう一人の騎士が、まだすがるような目で空を見上げる。
「で、でも、どうしてラルフが、盗賊なんかに」
「珍しいことでもないだろ。職を失った騎士が生きて行くには、流れの傭兵か盗賊か……どちらかしかねぇんだから」
 突き離したように言っているが、そんな彼の顔にも憤りがあった。
 盗賊に向けられているというよりは、何か別の、取り返しのつかない何かに向けられているようにも見えた。
 クレオが納得のいかぬ顔で、空を見上げている。
「でも、どうして戻ってきたりしたのです。ここに逃げて来ても、逃げ場が断たれるだけだ」
「良く分からんが」
「俺、聞きましたよ」
 近くにいた騎士が、二人の会話に口を挟んだ。
「子供が消えたって聞いて、戻って来たんだって」
「子供?」
「ああ、俺はそう聞いたけど」
「言われてみれば、私も確か、そんなことを聞いたような」
 輪が少しずつ増え、口々に勝手なことを言い始める。
「ラルフに子供なんていたっけか?」
「さぁ……良く思い出せな」
 首を振った騎士の目から、涙が伝い落ちた。
「あれ?」
 手の甲で拭い、彼は呆然とその手を見下ろす。その様子に只事ではない、と感じたのは僕だけではなかったらしい。周囲の騎士が、わっと騒ぎ始める。
「おい! どうした!」
「いや……なんか急に。変だな、何でだろ」
 彼自身、悲しそうな顔はしていなかった。ただ、不思議そうに己の目をこする。
「ラルフの子供のこと、考えようとして」
 そう口にした途端、ぼろぼろと泣き崩れる。
 奇妙な光景だった。確かに号泣しているのに、当惑しているのは当人なのだ。
「何で……」
 僕はそっと視線を外した。
「あ」
 彼女がいた。
 ここから少し離れた崖に、黒い女性が立っている。
 彼女は、二頭の竜を見下ろしていた。その目は冷え冷えと、底の知れない光を放っている。
「リュージ」
「何?」
「気をつけろ。何か、いる」
 そう言ったクレオの目は、同じ崖へと向けられていた。
 見えるのか。
 聞こうとしたその時、風が咆哮をあげる。吹きつける勢いに押されて、足がもつれた。地面だと思っていた部分が、あっけなく踏みぬける。
 あっ、と声をあげたのは一瞬。
 目を閉じたものの、次に足をつけたのは地面だった。ほっと力を抜き、自分を引きとめた腕に気づく。
「クレオ」
 彼は僕を自分の後ろへと押しやった。
「下がっていろ。ここは危ない」
 ちらりと目を走らせ、僕は呆然とそれを見た。女性のいたはずの位置を飛び回る、黒い鳥。その羽が舞うたびに、谷に風の悲鳴があがる。
 その風に、皆が大きく後退する中、クレオは逆方向に走っていこうとした。僕は目を押さえ、慎重に下がりながら、声をはり上げる。
「クレオ、お前はどうするんだ!」
「あの魔物を止める」
「でもこの風じゃあ!」
「大丈夫だ! この程度の風、俺達には大したことはない!」
 何をする気だ。
 そっと開けた視界の先に、クレオが竜に寄りそう姿があった。彼は帽子のような、兜のような何かをつけ、颯爽と竜にまたがる。
「こんな風の中……」
「無茶だ」
 後ろの騎士達の声を聞きながら、僕はぺたんとその場にへたり込んでいた。
 祈るような思いで、魔物の方を見る。
 そいつのクチバシは、こちらを向いてはいなかった。睨む先にいるのは、二頭の竜。
「エルリック……」
 二頭の竜が、否、エルリックの竜が風にあおられて、大きく動きを封じられているのが分かった。なんとか乗りこなしているものの、明らかに形勢が不利に傾いてきている。
 あそこを魔物に襲われれば、確かにひとたまりもないだろう。
 それでも断言する。クレオはバカだ。現に彼だって、風の流れに邪魔されて、思うように動けていないのだ。あれで乱戦になったら、彼だって危うい。

 ふと、ライの言葉が浮かんだ。
 弟君に関しては何を仕出かすか分からないところがある。
 仲が悪い、という意味かもしれない。そして、あの物言いでは、確かにそう取れなくもない。だが、何となく分かってしまうのだ。
 エルリックは、クレオが好きなんだ。あれでも大切に思っている。限りなく屈折していて、多分エルリック自身でさえ、きちんと向き合えていないけれど。
「風よ……」
 唇から、そんな言葉がこぼれた。
「風の魔女よ」
 空に描く円陣。その光の軌跡を、僕が、いや、この指が知っている。
「我が名において命じる」
 精神が研ぎ澄まされる感覚。血の流れる音さえ響くような静寂と緊張。腹に力をこめて、僕はその言葉を吐き出す。
「風よ、風よ、静まれ!」

 何故、そんなことが出来ると思ったのか分からない。
 僕はごく普通の高校生だったし、ゲームも漫画も人並みかそれ以下で、後は勉強と睡眠に費やしたような人間だ。魔法なんて、使えるとも使いたいとも思ったことがない。
 だが今は、疑わなかった。
 この身体が覚えている何かを、僕もまた、使えるということを。

 嵐が止んだ谷を、一頭の竜が飛ぶ。その軌跡は、空へ飛び立とうとしていた魔物と交差し、そして一本に繋がった。
 落ちていく黒の魔物は、その途中で、美しい女性の姿に変わる。
 そして、それを追うように、もう一頭の竜が谷底へ落ちていく。それを見守る竜の上の騎士は、軽くかぶとの端に手をかけて、何かを祈っているようだった。
 他の騎士達もそれにならい、軽く胸に手を当てて、頭を下げる。
 谷への黙祷は、しばらく続いた。



 歓声とも称賛とも無縁の空気の中、戻ってきた彼は、すぐさま僕のところにやってきた。
「助けられたようだな。礼を言おう」
「借りを返しただけだよ」
「借り?」
 エルリックはしばらく考え込み、ぽんと手を打った。あれのことかと言った後、呆れ顔で首を傾げる。
「あんなことを覚えているとは、君も義理堅い男だな」
「お互いサマだろう」
 そう返した後、僕はちらりとクレオを見た。彼は少し距離をとって、僕等を眺めている。
 彼のためらいに、かすかに胸が痛んだ。
「お父さーん!」
 急に、中庭の方から、子供特有の甲高い声が響いた。騎士達があ然としている中、どやどやと子供達の群れが押し寄せてくる。
 なんだ、どうした、一体今までどこに、という戸惑いと喜びが巻き起こる中、ぼーっとしていた僕の身体に、ぐっと力強い腕が巻きついた。
「リュージ様! 良かった、やっと見つかった」
「ライ!」
「どこへ行かれていたのですか。ずっと探していたんですよ」
 それはこっちの台詞だ、と言おうとして、僕は苦笑する。
「うーん、色々、説明する必要……あるかな?」
 横を見ると、エルリックがつまらなそうに手を振っていた。
「ああ、必要ない。何となく、話が繋がった」
 そして彼は、ため息をついた。
「俺達は本当に忘れていたのだな」
 その言葉が、妙に物悲しく、谷を吹く風にのって響いた。

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