翌朝、図書館に案内された僕は、そこに広がる光景に小さく嘆息した。
「同じだ」
「え?」
「いや……前に映画で見た、外国の図書館に、さ」
「エイガ? ガイコク?」
 クレオが目を丸くして、首をひねっている。僕は小さく手を振った。
「ああ、気にしなくていい。こっちの話だから」
 外国まではともかく、映画というものを説明するのは難しそうだ。
 図書館の職員に辞典の場所を聞いてみると、特に説明しないでもすぐにその場へ案内してくれた。その手際から見ると、辞典というものはちゃんと存在するらしい。
 だが、僕達の世界とは違い、一般的ではないのだろう。
 小学生の頃、国語の時間か何かに辞書を引く練習をさせられたが、あんな光景はこの国では見られないに違いない。
 クレオに棚から下ろさせた辞典を、片っ端から触れていく。
 最初は無造作にぱらぱらと開いてみたが、辞書の一つ一つが手で書かれているのに気づいた辺りから、恐る恐る、へと変わる。
 この世界にはまだ、印刷という技術は存在しないのだろうか。
 そう思っていると、ちらほら印刷されているものも登場してきた。見ていると、一般性の高い辞典は印刷で、そうでないものは手で書かれているようだ。
 手製で作られたものの中には、色鮮やかな挿絵が入っているものまである。
「ん……?」
 その中の一つに、奇妙なものを発見した。
「リュージ。それは何だ? 文字より、絵の方が多いが」
 無邪気に訊ねてくるクレオに、何故かこの世界に詳しくない僕の方が答える形となる。
「図鑑だよ。それも子供向けのさ」
「ズカン?」
「物の絵と名前を載せたもの……かな。簡単な言葉で書いてあるから、クレオでも読めると思うけど」
「それはどういう意味だ?」
 情けない顔をするクレオに吹き出しながら、僕はそっと手元の本を見る。
「だけど、本は貴重品だって言ってたよな。なのに、何で子供向けのものがあるんだろう」
 ふと僕は、こちらを覗き込んでいる誰かの目を感じた。
「おにいちゃん」
 気づくと、まだ小学生くらいの少年が僕の横に座っていて、図鑑を覗き込んでいる。その手にはまた別の、分厚い辞典が抱えられていた。
「お兄ちゃんも、字が読めるんだ。すごいねぇ」
「あ、ああ……」
 そういえば、文字が理解できる。
 ここまで来ると、僕も薄々状況が呑み込めてきた。この身体についた翻訳機能は、おそらく王子様の力だ。彼は異世界から来る客人が困らぬよう、そうしてくれたのだろう。
 そんな小さなところに、王子様の配慮を感じる。
「じゃあね、教えてほしいの。読めないところがあるんだ」
「どこ?」
「あのね、この言葉」
 ぱらぱらと辞典をめくった少年が指した文字に、僕は思わず凍りつく。
「これ、は……」
 そこには、磔にされた女性の絵があった。その下に書いてある文字は分かるが、子供に教えてもいいものか迷う。
「あのね、お兄ちゃんが持ってるその本、お父さんが、ぼくのために作ってくれた本なんだよ」
 僕が言葉に困っていると、少年は無邪気な目で語り始めた。
「お父さんはね、別の都で学者をしているんだ。だから要らない紙もインクも、たくさん手に入るんだって。ぼくもね、たくさん勉強して、いろんな本が読めるようになったら、お父さんと同じ大学に行けるんだよ」
 この時、僕は違和感に気づいた。
 横にいるクレオの目が、全く少年を捉えていない。むしろ、怪訝そうに僕だけを見つめている。
「ここに出ていた文字、全部覚えたんだよ。色んなものの名前、覚えたんだよ。たくさんたくさん覚えたんだ」
「クレオ」
「でも、忘れちゃったの。全然、出てこない」
 どうしました、と訊ねてくるクレオに目で合図をすると、僕は少年の方へと手を伸ばす。
「ぼく、本当に覚えたんだ。覚えたんだよ。なのに」
 必死にそう主張する少年を見ていると、心が痛んだ。
 おかしいじゃないか。妄執だの呪いだのなんて、いかにも不気味で気持ちの悪いものが出てくるって決まってるだろう。
「……なのに、どうして出てこないの」
 そう目を伏せる少年の頭を、ぽんと撫ぜてやる。
 次の瞬間、僕は近くの壁へと投げ出されていた。
 訳も分からず身を起こし、視線を向けた先に、クレオの背が見え――
「あ……」
 駄目だ、と叫ぶ間もなく、クレオはその剣を振り下ろした。
 そうしてから、彼はこちらを振り返る。
「無事か。リュージ」
「あの子は……」
「あの子?」
「子供を殺したのか」
 クレオは何度か目を瞬かせ、そしてためらうことなく、はっきりと僕に告げる。
「俺は騎士で、俺の任務は貴方を守ることだ。その為なら、どんなこともする」
 それを聞いた瞬間、僕は笑い出しそうになった。
 ああ、やはりここは異世界だ。僕を守ってくれるらしい騎士が、その為になら子供殺しも厭わないらしい。
 いや、分かっている。ここは異世界なのだ。クレオの行動は何一つ間違ってはいないのだろう。現代日本での平和ボケ感覚を、ここに持ち込むべきではない。
 それでも僕の感情が静まってはくれなかった。
「少しだけ、一人にしてくれないか」
「分かった」
 反論はせず、クレオは入り口で待っていると言い残していった。
 額をおさえてうつむいていた僕の足元に、何者かの影が立つ。
「一人にしてくれと言わなかったか」
 てっきりクレオだと思い、顔を上げた僕の前にいたのは、ここまで案内してくれた職員だった。
「あ、あの、すみません。俺……あの、先ほどの戦いを見ていて、貴方がたのやり取りも見ていたのですが……その、気になって」
 彼は何度かどもりながら、こちらの顔色を窺っている。
「何が言いたい」
「あの、騎士様が戦っていたのは、子供ではありませんでした」
「子供……じゃない?」
「僕は見たんです。確かに化け物の姿をしていました。カエルみたいな顔をしてて、本当なんです。騎士様何も言わなかったけど、でも僕は確かに」
「……分かったよ」
 彼の必死の抗弁をさえぎると、僕は落ちていた図鑑を拾い上げた。開いていたページを確認し、そっと埃を落としてやる。
「確かに、そうだったのかもしれないな」
 開かれたページに描かれていた絵の下には、カエルの文字があった。

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