ユニットバスは苦手だ。
 修学旅行の時に使った事があるが、どうも狭くて使いにくい。
 湯船につからないと入った気がしない僕としては、個別の風呂より共同風呂を使った方が良いのではないかと思うが、そういうと妹に白い目で見られた。
(兄貴って、ホント鈍感。だから恋人も出来ないんだよ)
 何故かと訊ねれば、クッションが飛んできた。
 横で見ていた母親が、女の子はアレだから、とまた訳の分からないことをいう。女の子だからと言われれば、何となく納得はしたが。
 アレだのコレだので良く伝わるものだ。
「兄貴、か」
 ぱしゃり、とシャワーのお湯をすくって、顔を勢いよくこする。
 名前なんて必要なんだろうか、とふとそんなことを思った。
 アレやコレでも意味は通じる。隆二なんて名前、妹が生まれてから、まともに呼ばれた事なんてなかった。怒られる時くらいだ。
 それ以外は、お兄ちゃんか、兄貴か。
 そこで僕は、ぴたりと手を止めた。
「あれ……?」
 父親の名は何だったろう。母親の名は。
 おかしい。ちっとも浮かんでこない。
「そんな馬鹿なこと……!」
 がたん、とタオルを壁に叩きつけ、僕は勢いよくカーテンを引いた。濡れないところに置いておいたバスタオルを引っつかみ、僕はバスルームを出る。
「お」
 ちょうど出たところで、戻ってきたクレオと鉢合わせた。
「悪い。先にバスルーム使わせてもらった」
 横を通り、シェードのところまで行くと、僕は改めて周囲を見回す。
 これがシェード。あれがベット。俺は隆二で、彼は……
 振り返り、僕はクレオがあ然と立ち尽くしていることに気づいた。彼の視線を追うと、バスルームから点々と続く水滴と足跡。
「あ、ご、ごめん! 今、拭くから」
「いや! 俺が拭く! 拭くから早く着替えてくれ!」
 クレオはあわてて近くにあったタオルで、足跡を拭きにかかる。その間、全く目も上げない。
「どうしたんだ、別に見られても気にならないぜ」
「いや、そんな格好で歩かれたら、目のやり場に困る」
「はぁ? 男同士で……」
 そう言いかけた僕は、あることに気づいた。
「ああ、そうか。この人は王子様だったな」
 騎士であるクレオにとって、主君の半裸を見るということは、僕の想像以上に辛いことなのかもしれない。
「悪かった」
「リュージ……」
 すまない、と小さく呟くこの人は、やはり優しいのだろう。
 だから見せまい、見せまいとしているが、城で聞いた会話から想像するに、クレオもまたこの身体の持ち主……フリージオ王子の部下だったようだ。
 心中、察するに余りある。
 感慨に耽っていた僕は、はっと本来の用件を思い出した。
「クレオ、俺の名前は分かるか?」
「リュージだろう。それがどうかしたか?」
 当然のようにそう言った。ほっと安堵しながら、僕はもう一度深呼吸して、両親の名前を思い出そうとする。
 親父。お袋。妹。
「留美――」
「え?」
「妹の名前だ。それは思い出せる、けど」
 両親の名前はどうしても思い出せない。
 考えてみれば、親の名前なんて書類に書く時に必要なくらいで、生活の上では親の名前を呼ぶことも耳にすることもない。
 第一、夫婦でも名前など呼ばないのだ、あの人達は。名前をほとんど必要としない生活、それでも成り立ってしまうのだ。
 おい、ねぇ、で済んでしまう。
「名前なんて、本当に大切なんだろうか」
「俺は大切だと思うが」
「何故」
 そう聞いた俺に、彼は真顔で答えた。
「呼べないと困る」
 思わず、気が抜けた。
 だからどう困るのかとか、何故困るのかとか、その辺りを全て突き詰めようともせず、ただ単純に困ると呟く男が、どうにも微笑ましく。
 僕はつい笑みを浮かべていた。



「駄目、外れ」
「そうみたいですね」
 ぱたん、と書類をとじると、僕は棚へと戻す。
「良く考えたら、物の名前には関係ないか」
「しかし、全ての名に関係したものというと……思い至りませんが」
「うーん……でも考えてみれば、これって人名だけですよね」
 僕達が来ていたのは、役場の倉庫だった。
 名前に関係したもの、と聞いてクレオが思いついたのは、役場の住民台帳。
 この世界にも戸籍というものがあるのか、と感心したが、考えてみれば当たり前のことかもしれない。
 戸籍の歴史は、案外と古いのだから。
「確かに。申し訳ありません、無駄足を踏ませてしまいました」
「いやー、それは仕方ないとして……っていうか、クレオさん」
「はい」
 律儀に答えるクレオに、ついつい僕はこんな言葉が出てしまう。
「俺なんかに、丁寧な言葉を使わないで良いでしょう。逆に肩が凝っちゃうんですけど」
「そ、そうか……ん?」
 ようやく普通の物言いに戻したクレオは、何かに気づいたように眉を寄せた。
「そもそも、リュージがそういう言葉を使っているだろう」
「は? 俺はこの通り、ざっくばらんですけど?」
 クレオは何か言いたげに目を細めたものの、小さくため息をつくに留めた。
「……分かった、心掛ける」
 そうしてくれ、と言ったものの、僕にも無茶なことを言っている自覚はあった。
 僕にタメ語を使わない為には、ある程度、意識して直さなければならないだろう。
 中身はどうであれ、姿は王子様だ。主君と仰いでいたであろう相手に、タメ口を叩けるタイプには見えない。今までクレオが敬語を使わなかったのは、中身の違いを意識してのことだろう。
「名前、か」
 僕は拳をこめかみにあて、軽く刺激を与える。
「物の名前が入っていて、概念そのものとも関係があるもの……」
 ふと、僕が思い出したのは、学校の図書室にある一個の棚。
「クレオさん、この世界に辞典ってありますか?」
「ジテン? それは、どういうものです」
 クレオに聞き返され、僕はうっと声を詰まらせた。
 どうやら、辞典の部分は翻訳されなかったらしい。つまり、それに類したものがないということだ。
 だが僕は、最後のあがきに説明を付け加えてみる。
「ええと、物の名前や言葉を調べる為の本です」
「さぁ……良く分かりませんが」
「やっぱりないか……」
 諦めかけた僕に、クレオは事も無げに言った。
「いえ、そうとは限りません。本は貴重品ですから、俺もあまり見た事がないのですよ。図書館にいって探してみないとはっきりとは」
「図書館があるのか?」
「ええ。この町にもあると思います。前に王子とリオデラートが……」
 そう言ったクレオは、さっと口を閉ざした。僕は苦笑して、質問を投げかける。
「フリージオ王子とリオデラートは仲が良かったのか?」
「……リオデラートはフリージオ王子の側近でした」
 ああ、と小さく呟いて、城で見たあの人を思い出した。
 冷たい表情をし、事務的に命じたあの人もまた、あの女騎士と同じような葛藤をしていたのかもしれない。
「リオデラートは第二王子エルネスト様の学友で、その縁でフリージオ様の側近兼教育係としてお仕えしていたのです」
「ああ、そうか。お兄さんがいたんだっけ。仲が良かったのか」
「エルネスト様は弟君を溺愛なさっていました。それはもう、目に入れても痛くないほどに」
 思わずふっと吹き出してしまう。そんなこちらにクレオは穏やかな目を向け、そしてそっと目を伏せた。
「そして陛下も、エルネスト様やフリージオ様をそれはそれは大事になさっていたのです」
 けれども第二王子の命は奪われ、フリージオ王子は命を投げ出して、僕を召喚した。
 身体はここにあっても、フリージオ王子は既にこの世の人ではない。
「お兄さん、か」
 自分がそう呼ばれていたのはいつの頃だったろうと記憶を巡らせるが、どうしても思い出せそうになかった。

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