第二話:名前のない町


 小さな頃、僕は妹が大嫌いだった。
「こんな色、いや! お兄ちゃんの色の方が良い!」
 母親が何か買ってきた時は、いつもそんなやり取りがあった。
 僕は男の子用のものを買い与えられ、妹は女の子用のものを買い与えられたはずだった。なのに、妹はことごとく、僕の手からそれらのものを取り上げてしまうのだ。
 おかげでカップもピンクのものを使わなくてはならなくなったし、僕の毛布もピンクになった。服や着るものは、さすがに可哀想だと父親が反対し、両親で妹をなだめに回った。
 そう、なだめに回ったのだ。
 兄である僕は、いつも怒られながら、泣く泣くそれらのものを取りあげられた。僕へと渡されたものを、買ってきた当人が取り上げるのだ。その理不尽さったらない。
 かといって、どちらも同じ色で買ってくれば、可愛くないと言って駄々をこねるのだ。
 そんなわがままな妹を、両親は女の子だからと手放しで可愛がった。男の子だからと、厳しく育てられた僕が、それを見ていて面白く思うはずがない。
 忘れもしない。小さかった僕はその不平等に堪えられず、ひょっとしたら違う家の子なんじゃないかと疑っていたくらいだ。
 今となれば、父親そっくりのこの顔が、消しようのない絆を見い出せるけれど、子供が自分の丸っこい幼児顔に、ヒゲ親父の面影を見出せるはずがない。
 あの頃、僕は家族が嫌いだった。そして、そんな「世界」が大嫌いだった。



「リュージ」
 はっと顔を上げると、心配そうに覗き込む目とあった。間近にある男の顔に、思わず飛び退く。
「な、な、何っ?」
「何と言われても……目的地についたと言っただけだ」
 こちらを見る目が、呆れたものに変わる。だが口元に浮かぶ笑みは、仕方ないなと言いたげで、こちらもそっぽを向くくらいに留めておいた。
 馬車から降りると、そこは城の中とは一変し、人で溢れかえる街だった。
 レンガの建物がぎっちりと肩をすぼめている通りを、様々な人が行き交う。
「城の周りとは、全然違うな」
「……ああ、そうかもしれませんな」
 最初にやってきた都市は、ワーンズレセフトという町だった。
 一番鶏が鳴く刻限、まだ人が起き出す前に、慌ただしく城から馬車を飛ばし、ここまでやってきた。少し先を歩くクレオは、そんな様子を見せないが、おそらく隠れた行動を取らねばならぬと厳命されていたのだろう。
 馬車の中でも、僕は深めの帽子をかぶることを要求された。
 理由を察するのもた易い。死んだはずの王子が、城内やその近くをうろついているのを見られるのは、都合が悪いということなのだろう。
 ここまで来れば、他人の空似でごまかせる。
 急いで出て来たので、身支度も整えずにいた。そっと顎を撫ぜ、やはり自分の身体でないことを改めて実感する。
「なぁ、クレオ」
「何だ」
「王子様って、髭が薄い人だったか」
 そう訊ねると、彼は軽く眉をひそめつつ、頷いた。
「確かに、あまり濃い方ではなかったな。三日くらい放っておいても、全然分からないくらいだった」
「だろうなぁ」
「どうして」
 不審そうに聞き返す。一瞬、迷ったものの、そのくらいなら差し支えないか、と話し始める。
「俺ね、髭が濃い方だったんだよ。だから、寝坊して剃刀もあてずに家を出た朝なんかは、ヒヤヒヤしたものだけど」
 そう言った瞬間、クレオの目が少しだけ見開かれた。それを見て、僕は小さく笑う。
「想像つかねぇかもな。この人多分、綺麗で上品な顔をしてるんじゃないか」
「多分?」
 曖昧な言い方が気になったのか、クレオが小さく問うてきた。僕は軽く肩をすくめる。
「だって、俺はこの人の目でものを見てるんだぜ。あんただって、何も使わずに自分の顔を見るこた、出来ないだろう」
「それはそうだが……」
 一層、人通りの多い歩道を抜ける。クレオがこちらとはぐれないようにだろう、腕をがっちりと掴んで引いていく。複雑な気分だが、幸いにして人が多すぎて、男二人が手を繋いで歩いているところなど、目にもとまらないようだ。小さく、安堵する。
 クレオと一緒にいる時間はごくわずかだが、そんな僕にも何となく、彼の性格が掴めつつあった。
 義に厚く、真面目である。だが、人の気持ちには非常に鈍感な男。それが漆黒の騎士、クレオの印象だった。
 途中、やはり旅人らしき人が露天商に道を聞いているところに出くわした。
「あの、ここへ行きたいのですが」
 示された地図を見、男は少し眉を寄せると、地図に指で軌跡を描き始めた。
「ああ、ここはあちらをこっちへ曲がって、真っ直ぐに行くんだよ」
「そうですか、ありがとうございます」
 そう言って、軽く頭を下げる青年。
 良く見かける光景だった。あちらの世界でも馴染んだ光景だ。
 だが、横のクレオは緊張した顔になった。そして意を決したように、同じ男に話しかける。
「あの、すみません。宿屋はどこに?」
 騎士のそれよりも、大分柔らかい声音だった。男は怪訝そうに、眉をひそめる。
「……どこに行きたいんだって?」
「だから、宿屋です」
 明瞭な発音だった。だが、商人はますます困惑を深めるばかりだ。
「良く分からんなぁ。どういうところへ行きたいんだい?」
 そう言われ、僕は改めて、城で聞いた事実を思い知った。そっとクレオに耳打ちする。
「貴方の話通りですね」
「ああ……」
 そう答えた騎士の顔は、苦渋に満ちていた。彼は多弁ではないが、とても表情豊かだ。口よりも、その表情で分かってしまう。心中でため息を吐きながら、僕はにっこりと割って入った。
「僕達を泊めてくれるところを探しています」
「ああ、そこね。なら、そっちをこう曲がって、先を更にこう曲がると着くはずだ」
 彼は途端に納得してくれた。しゃきしゃきと教えてくれる。
 この反応に、僕は曖昧に微笑みながら、ゆっくりと礼を言って去った。
「リュージ」
「何、戸惑ってんです。聞いた通りじゃないですか」
「いや」
 軽く言った僕に対し、彼は厳しい表情を崩さぬままだった。何故だ、といぶかしんだ答えは、彼自身の次の言葉で明らかになる。
「少しずつだが、確実に悪化している」



 宿屋についた僕達は、今後の方針を話し合っていた。
 核を探すと言っても、町は大きいのだ。闇雲に探して、見つかる訳がない。
 第一、核というものがどういうものなのか、具体的にはさっぱり分からない。それはクレオも同じようで、しきりに首をひねっている。
「核とは、妄執をまとった物体で、そこから呪いが拡大するという話でしたが」
「つまり、嫌な思い出がまとわりついた物ってことだろう。それが人から人へ感染することで、少しずつ呪いが拡大していく」
 言いながら、僕は似たようなホラー映画を思い出していた。一時期、あの手の映画が流行った時に、妹がビデオを借りてきたのを見たような覚えがある。
 家に一台しかテレビのない我が家では、妹の選択は絶対だ。真夏のこと、居間にしかない冷房にしがみつく為には、ビデオの恐怖を堪えるしかなかったものの、好き好んで見たいとは欠片も思わない。
「……嫌な呪いだな」
 黒い髪を振り乱して迫ってくる女の幻影に、僕はひっそりと身震いした。クレオも深く頷くが、多分僕とは違う意味だろう。
「ってことは、ある程度、名前に関係したものってことだ」
「リオデラートの話によれば、そうでしたが」
 心当たりは、と尋ねられ、クレオは自信なさげに口にした。
「役場の住民帳とか」
「ああ、名前ですね、確かに」
 そこから当たってみるのがいいかもしれない。そう結論づけたところで、クレオがふと動きを止めた。
 彼の視線を追うと、地味な服装の青年が、礼儀正しく一礼するのが見えた。
「ちょっと失礼」
「知り合い?」
「部下です」
 先に部屋へ戻って下さい、と付け足していく。そう言われても、一、二分は彼を待ってみるものの、遠くで話し込む騎士達の難しい顔を見る限り、どうも長引きそうな気配がする。
 彼の言葉に従った方が良さそうだ。
 食堂を出、部屋へと戻る途中、やはり旅人らしき若者が、宿屋の人に話しかけているのを見た。
「すみません、これを洗いたいのですが」
「ああ、それならあの角を右に曲がって、奥になります」
 最初は何のことだ、と思ったが、彼が持っているタオルと石けんを見て、風呂だなと理解する。
 どうやら、この世界でもお風呂は存在するらしい。
「あの、すみません」
 そのまま立ち去ろうとした女性を呼びとめ、先ほどの若者を指して尋ねてみた。
「あの人が行ったところって、僕でも使えますか」
「もちろんですとも」
 にっこりと笑う。とても感じの良い笑顔だった。
「必要なものは、用意してありますから。ゆっくりつかって、疲れを落として下さいな」
「ええと、どこで借りれば良いんでしょう」
「ええ、ですから最初のところに用意してあります」
 最初のところと言われても、さっぱり分からない。
 ひょっとしたら、と部屋に戻ってみると、案の定、部屋の端の方にセットが用意されていた。先ほど、若者が持っていたのと同じものだ。
「だったら部屋って言ってくれよ……」
 小さくぼやいた後、クレオが言っていたことを思い出した。
 ここには、名前が存在しない。
 前よりも悪化している、とクレオが憂いていたのは、確かにそういうことだった。
 最初は、たとえば僕がリュージであるとか、この宿屋の名前が大鹿亭、といった、固有名詞の消失から始まったらしい。それが徐々に、使用頻度の少ない普通名詞の順から消え始めている。
「一体、誰が何の為にこんなことをするのか、分からない」
 クレオはしきりにそう首を傾げていたが、それは同感だ。こんなことをして、何の得になるのだろう。ただ、言葉が通じにくくなるだけだ。ちっとも良いことなんかない。
 おそらく、損得など関係ない。深い恨みがあれば、人間はどんなことでもする。
 恨みが、あって。
 そこで僕の思考は止まった。タオルを持った手が、軽く震える。
「何を今更」
 一度死んだ身だ。何も恐れることはないじゃないか。
 もう彼女に会うことなどない。
 気を取り直し、部屋をぐるりと見回すと、あるドアが目に付いた。ひょっとして、と開けてみると、案の定ユニットバスになっている。
「便利じゃん」
 異世界にユニットバスがあるのは不思議だが、その辺りはあまり考えないことにした。そもそも、風呂の歴史というのは案外古いと聞いたこともあるし。
 風呂の入り方も違うかもしれないし、いくら亡くなったと発表されていても、この身体のあるじは王子様だったのだ。注目されるのはあまり良いことではない。
 僕はこちらを使うことに決めた。

Back//List//Next