第一話:生と死が入れ代わる城
声が聞こえた。うるさいな、と目を閉じたまま、身をよじる。
「隆二!」
がらり、と引き戸が開く音がした。それでもまだベットにもぐりこんだままだ。ただ、声だけで返事をする。
「何だよ」
「あんた、この成績は何よ」
思わず、ため息が洩れた。たまには、別の話題を出せば良いのに、飽きもせず。
「中学校の時は凄く良かったのに、どうして」
そして同じ展開。付き合ってる友達が、だの、恋人がどうのとか、しつこく聞いてくる。僕の返事は毎回、変わらない。
「いないよ」
付き合ってる奴なんて、いない。
友達としてつるんでる奴らも気は良いし、それなりに好きだけれど、さほど踏み込んだ関係じゃない。
適当に頷いている内に、母親は部屋を出ていったようだ。そのまま、また惰眠を貪ろうと考えていると、再び引き戸が開く音がした。どん、と鞄を置く。
「また、寝てるよ」
心底、あきれ返った声が聞こえた。妹が帰ってきたのだろう。
「兄貴は良いよね。頭が悪くても、勉強しなくても、大学まで行かせてもらえるんだもん。男ってだけでさ」
最近、妹は機嫌が悪い。学校で開かれる夏季講習に行っていることを、親から注意されたからだろう。別に赤点で補習を受けなければならないという訳ではない。自分で勉強しようというのだから、誉められるべきことではないかと思うのだが、うちの親からすると少し違うらしい。
「あたしは女の子だから、大学なんて行かなくても良いっていうのよ、あの親。世の中は男女平等なんて言ったって、結局、女の子は女の子は、よ。あったまくる」
返事はしなかった。やはり、この後に続く言葉が分かっていたから。
「兄貴がいなければ、あたしだって、大学に行かせてもらえたかもしれないのに」
僕は何も言わない。そのことが、余計に苛立つのだろう。がん、と机を叩く。
「兄貴なんてどうせ大学に行ったって、遊びたおすにきまってるじゃない。高校行く時だって、薦められたところをそのまま受けたんでしょ。将来の目標なんて、何一つなくてさ。馬鹿みたい」
「じゃあお前は?」
ようやく口を開くと、彼女は得意げに言った。
「医者になりたいのよ」
「ふぅん」
気のない相づちが気に障ったのだろうか。妹が更に突っかかってくる。そのとげとげしい声から逃げるように、僕は眠りの世界に入る。
その瞬間、ふと気づいた。
(確か僕、線路に突き落とされて……)
生きている訳がない。一瞬だが、引き裂かれるような痛みがあった。第一、電車にひかれて生きている人間など、皆無に等しいだろう。
では、これは走馬灯というやつなのか。
ならば、もう少しまともなものを見たかった。
そんなことを思いながら、僕は瞳を開ける。
暗い天井が目に入った。円状のそれを見上げたまま、僕はまず息を吸った。
「ここは……」
ぴくり、と指を動かしてみる。それから、重たい腕を天井の方へと伸ばす。しばらくその動きを繰り返してから、僕は腹に力を入れてみた。そして、ゆっくりと身を起こす。
てっきり、そこには三途の川でも広がっているものだと思っていた。
だが、僕の目に入ってきたのは、どこかがらんとした空間だった。まるで小さなホールを思わせる。そこで自分がいた場所を見下ろし、度肝を抜く。
冷たい石造りの台だった。布が敷かれているのが、せめてもの情けか。それでも、静かな冷気が伝わってきて、僕はかすかに身を震わせた。
おかしなものだ。死んだはずなのに、寒さを感じるなんて。
そう笑いながら、自身の腕を見て愕然とする。
自身よりも明らかに白い肌。学ランとも、普段良く着ているものとも違う服。しいて言うなら、軍隊の服に近いのかもしれない。
何だか夢でも見ているような気分になり、横目でかきあげた髪を見る。
「あ……」
確かに僕の髪は、規則通りとはいえなかった。軽く茶色がかった髪だったはずだ。
だが、その髪は、あまりにも見事な赤色をしていた。
「嘘、だろ」
ここまで染めた覚えはない。それとも、血で染まってしまったというのだろうか。手櫛で何度も撫ぜつけるが、血で凝り固まったような手応えはない。
つまり、これがそのままの色ということだ。
呆然としていると、かたりと音がした。反射的に、そちらに目をやる。
ホールの扉が開いていた。そこに立っていた人を見、僕は目を疑う。
木目細かな肌に整った顔立ち。肩で柔らかく波打つ金の髪。軍服の上からもはっきりと見て取れる、女性らしい均整のとれた身体。
状況も忘れ、まるでハリウッド女優のようだ、とうなる。
だが、彼女も驚きで声が出ないようだった。しばらく、こちらを見つめた後、震えるような声で問う。
「フリージオ様」
彼女は、そうした意味合いのことを言ったようだった。言ったようだ、というのは、こちらとは明らかに言語が違ったからだ。
だが何故か、意味は分かる。いや、正確に言えば、そんな気がするというだけだが、こんな感覚は今までにない。
多分、自分は理解している。理屈ではなく、そんな風に思った。
では、自分からは話せるのだろうか。
やや咳き込んだ後、僕はひたすら先ほどの感覚を思い出しながら、固まったままの彼女に問う。
「誰、それ」
言った瞬間、成功したのが分かった。だが同時に、少しだけ後悔した。
彼女の瞳が大きく見開かれ、はっきりと分かる失望の色を浮かべる。そのまま、こちらに背を向けると、声をかける間もなく走り去ってしまう。
残された僕は、所帯なく座り込むしかなかった。
「何なんだよ……」
ぽつりと出たのは、先ほどの難解な言語だった。次は日本語で話そうと、何度か同じ言葉を繰り返してみたが、それは失敗に終わった。もう先ほどの言語が染み付いてしまっているようだ。
がさりと髪をかきあげ、また不愉快になる。
僕は死んだはずだ。
もし奇跡のような出来事があって生きているにしろ、髪色が変わったり、こんな冷たい場所に放置されたり、ましてや謎の言語でやりとりすることはあるまい。
一体、僕に何が起こっているというのだ。
「つまり、これが死後の世界なのか?」
大きな独り言が、ホールに響き渡る。すると独白に呼応するように、笑い声が響いた。
「ここが?」
声がした。見ると、先ほどの出入り口に、また別の人物が立っていた。
今度は男性だった。やや小柄で痩身だが、大きく開いた首元にしっかりと喉仏が見える。今度の男は見事な銀髪だ。こんな髪をしている奴は、ミュージシャンの中にもいないだろう。
明らかに、染めたものとは違う色をしていた。
眼鏡の向こうに光る瞳は切れ長で、探るようにこちらを見ている。
「残念ながら、俺はまだ死後の世界を知らない」
彼は突き離すように言った。やや、癪に障る口調だったが、それは出さずに問う。
「俺は、死んだのか」
「死んだ?」
一応、驚いたのだろう。形良い眉を、くいっと上げてみせる。だが、どこか斜に構えているように映ったのは、奴が目鼻立ちの整ったいい男だったからだろう。
そして、しばらく考えた後、くっくっと声を出して笑う。
「なるほど。そうでなければ、召還出来ないということか」
何のことだ、と問うが、彼は軽く首を振っただけだった。そして、独白のように囁く。
「この術は、魂だけを召還するものだ。だから、肉体から離れた魂、つまり死者の魂を呼ぶしかなかったのだな」
「召還?」
思わず、笑ってしまった。そして、半ば諦めの境地で肩をすくめる。
「つまり俺は、死んだんだな」
口に出し、僕は改めて自分の姿を見下ろした。俯いた視界の中に、男の靴先が入る。一歩、こちらに近づくと、彼は冷たい声で問う。
「冷静だな」
「まぁな。死んだ後も、こんな夢を見られるくらいだ。冷静なんだろうさ」
「夢?」
その声が、引きつったように響いた。
「夢なら、良かった」
視界の中に、ずかずかと靴が踏み込んできた。慌てて顔を上げようとするが、彼の方が早い。顔をつかむと、無理に上向かせた。
口元だけを笑みの形に引きつらせる男の顔が見えた。
「な、何なんだよ、一体!」
「良く貴方の身体を御覧なさい。特に、胸元を」
頬を挟む力は、ぞっとするほど強かった。
ケンカには縁のない生活をしてきた。そんな強い力を向けられるのは、初めてだ。やや、ためらいながらも、胸元に目を落とす。
きっちりと閉ざされた襟元のボタンを外すと、白いワイシャツが。そのボタンを外して、ようやく露出した胸元は、自分のそれとは明らかに違っていた。
白々と輝くような肌の中に、丸い傷があった。その中に散りばめられた別の傷と重なって、まるで紋章や魔法陣のような、細かい図柄が描かれている。
「それは儀式の時の傷です」
平板な口調だった。男は尊大な笑みを浮かべて、こちらを見下ろしている。
「どういうことだ?」
かすれた声で問うてしまう。そんな僕の動揺を見透かした上で、彼は小さく笑い声を立てた。
正直に言って、癇に障る嬌声だ。
「なるほど、ね。思ったより、厄介なことになりそうだ」
彼は小馬鹿にしたように、肩をすくめた。
「説明は明日にしましょう。今日はひとまず、お休み下さい」
僕はおそらく、ぽかんとした表情をしたのだろう。相手の目には、はっきりと蔑みの色が見えた。
「部屋を用意させましょう。良いですね?」
「良いですねって……」
抗議する間も与えず、奴は大きく手を叩いた。その音と同時に、二人の兵士がこちらをがっしりと掴み、部屋から連れ出してしまった。
廊下を出たところで、一悶着が起きた。
無表情に部屋から連れ出した奴等が次にとった行動に、僕は猛烈な抵抗をした。
「ふざけんな! 何で俺がそんなもん、かぶらなきゃなんねーんだよ!」
こっちが騒ぐが、奴等は言葉を発することはなかった。ただ、忌々しげにしかめた顔から、奴等の内面を聞くことは出来る。
厄介な。そう思っているのだろうが、僕の方は意地だ。
白い布袋のようなものをかぶせられる。ただそれだけとはいえ、激しい嫌悪感があった。何としても、阻止したい。
だがその抵抗は、そう長いことは持たなかった。
二人がかりで、口元をふさがれ、あっけなく捕えられる瞬間。
「何を騒いでいる」
冷徹な声が響いた。二人は急に慌てたように、僕を手放す。
「だ、団長!」
急に支えを失い、床に引っくり返った僕は、下から仰ぐようにして彼と対することになった。
ある意味、ここで見かけた誰よりも、親近感を抱かせる顔だった。
彼が割合、日本人に近い容姿をしていたからだろう。瞳も髪の色も、目に馴染んだ黒。もっとも、彼が現実にいたなら、日本人ばなれした美男子、と評されるのだろうが。
「……その男は?」
彼は特に動ずることもなく、そう訊ねてきた。
「あ、あ、あの、それがその」
しどろもどろになった兵士達を見、彼は不快そうに目を細めた。彼らは、いっそう焦り出す。
「だ、団長。これはその」
「分かっている。リオデラートの命だろう」
渋い顔で吐き捨てると、彼はくるりと背を向けた。
「人払いをしてやる」
「は?」
「おかしな細工をして人目をひくよりもマシだろう。さっさと来い」
そっけなく言いながら、どんどん先へといってしまう。
「他言無用だ。私もこのことは忘れる。良いな」
「団長……」
すみません、と頭を下げた声は、いかにも普通の人だった。そんなやり取りを見ている内に、何だか妙な気分になってくる。
結局、僕は袋をかぶせられることもなく、抵抗らしい抵抗もせずに、ある一室に押し込められた。
その間中、彼らは僕と口をきこうとはしなかった。
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