序章


 深夜、枕元で鳴った携帯電話の音に起こされた。
「嘘つき!」
 電話越しにも、怒気の激しさが伝わってきた。
 最初、相手が誰なのかも分からず、履歴を見たものの、表示されている番号は見知らぬ他人のものだ。
 だが、誰、と聞けるような雰囲気ではない。
 僕は眠い頭で、適当な返事を考えた。
「何のこと? いつ、僕が嘘をついたって?」
「ついたじゃない!」
 あまりの高音に、僕は思わず受話器を手放した。それでも、声が届くくらいだ。超音波でも放っているんだろうか。
「恋愛に、興味がないんだって」
 しばらく考え、僕はようやく声の正体に思い至った。

 それは、数日前のことだった。
 好きです、とうつむく彼女。言外に滲ませた、付き合って下さい、の意。僕は一瞬だけ逡巡し、ごめん、と答えたのだ。
 それで、全てが片付くと思っていた。
 だが、彼女はどうして、と問うてきたのだ。
 どうしてもこうしてもあるものか。その気になれないんだよ。
 ……とは、とても言えなかった。
 だから僕は、言葉を探した。もう少し、穏やかな言い回しを。

 でも、それでも嘘つき呼ばわりされる筋合いはない。僕は本当に、恋愛に興味がないのだ。
「嘘なんてついてないよ。本当に、興味ないんだ」
 眠いせいか、やや口調が刺々しくなった。だが、彼女はひるまない。
「女と付き合ったこと、あるんでしょ」
「……ないよ」
 欠伸混じりに答える。
「一学年上の先輩」
 やや眠気が覚めた。
「委員会で一緒だったって?」
「あれは……」
 付き合ったなんてものじゃない。そう言いかけて、口をつぐむ。その一瞬のためらいが、彼女の中で真実へと変わったのだろう。
「嘘つき!」
 一方的に勧告され、力任せに電話を切られた。
 残された僕は、憮然とするしかない。
「嘘じゃないのに……」



 翌朝、来た途端、馬鹿笑いが教室を満たした。僕は仏頂面でそれを聞く。
「何で、お前等が知ってんだよ」
「噂になってんだよ。なぁ?」
 一人が振り向けば、誰かがそうだ、と頷く。僕は軽く苛立ちながら、教科書を机の上に叩きつけた。
「だから、何で噂になるんだよ。俺、誰にも言った覚えないけど?」
「お前、何言ってんの。もう一人、いるじゃんよ」
「はぁ?」
 思わず眉をひそめた。そして、悪友どものにやけ顔を眺め、僕は肩をすくめる。
「お前こそ、何言ってんだよ。そんなこと、べらべら話す訳」
「バッカだなぁ、お前」
 いかにも、呆れたと言わんばかりの声音だった。むっと目を上げた僕に、悪友は勿体ぶった仕草で言う。
「女ってものが分かってねぇよ」
「そりゃ、男だし」
 当然じゃないか、と呟いた僕に、彼等は憐れみの目さえ向ける。
「女ってのは、そんなことをべらべら話すんだよ」
「今朝、泣き晴らした目で登校してきたって噂。そんで、友達が訊ねたら」
 奴らが面白おかしく語ってくれるのを聞き、僕は開いた口が塞がらなくなった。
「ぎゃーぎゃー泣き喚きながら、全部話したって訳かよ」
 ため息が出た。そんな僕の様子を見ていた奴らは、不思議そうに訊ねる。
「でもよ、何で断っちまったの? 結構、可愛いじゃん、あいつ」
「だよなぁ。お前、女だったら誰でも良いってとこ、あるじゃん? 駄目なの?」
「駄目に決まってんだろ」
 わざと乱暴な口調に合わせる。そうでなければ、呑まれる。
「俺、女と付き合ったことねぇもん」
 すると、奴らは一様に、嘘つけ、と笑った。
「嘘じゃねぇよ」
「じゃあよ、したこともねぇの?」
「それは」
 ある。じゃあ、付き合ったんじゃねぇか、と喚く友人に、僕は正直に言った。
「でも付き合ってねぇよ。ただ、そんだけの関係だし」
 すると彼等は、何故か引きつり笑いを浮かべ、大人じゃん、と茶化す様に付け加えた。



 それから、一週間。最初は刺々しかった周囲の視線が、徐々に同情へ変わる。その頃になると、僕はもう周囲なんてどうでも良い、と思うところまで追いつめられていた。
「何だってんだよ……」
 荷物を叩き入れる様にして、ロッカーを閉める。そうして、僕はそっとため息をついた。
 あっさりと振ったのは、確かに酷かったかもしれない。だけど、僕の落ち度はその程度だったと思う。
「カンベンしてくれよ、これは……」
 着信履歴にびっしりと続く、非通知の番号が始まりだった。もしかしたら、と思いながらも、設定で弾いておいてから、しばらくして。
「なぁ、マジでヤバイんじゃねぇ?」
 そう真顔で言ったのは、携帯電話の一件を知らないはずの友人の一人だった。
「だんだんイタくなってくる感じだよ、これ」
「イタくなってくるって、そこまで言うほどのことでもないだろ」
 苦笑混じりで言うと、彼らは一様に妙な顔をした。沈黙に、僕一人だけが何とも言えぬ顔で立ち尽くす。その気まずい時間を破ったのは、乾いた声だった。
「始終、付け回されてるじゃねぇか」
「え……」
「お前、マジで気づいてなかったの? 昨日とか、ホームで恨みがましくにらんでたじゃんか」
 聞いた瞬間、思わず背筋が冷えた。

 あらためて気をつけていると、確かに友人の言う通りだった。行き帰りのホーム、最寄りの駅。まこうと遠回りすれば、家の近くでうろついている。
 こういう時、自分が男であることが恨めしい。
 相談しようにも、男が女に付け回されている、というのもみっともないような気がしてしまうのだ。もう少し、実害が出てからでないと、警察に行っても仕方ない。そんな風に誤魔化してしまう。

 限界はどこなんだろう。そんな風に考える日が続いた。
 自宅に来た僕宛ての郵便に、開封して戻したような跡があったのも、一度や二度ではない。
 メールには、こちらのメモリを盗み見したとしか思えない内容が入って来るに到っては、思わず周囲を見回してしまった。
 落ちついて考えれば、体育でロッカーに入れておいた時だろう。一応、ダイアル式の鍵をかけておいたが、あれならば外せないこともない。
 少しほっとした。そんな自分に、ぞっとしてしまう。
 一体、自分は、どこまで我慢出来るのだ。普通なら、ロッカーを開閉されている段階で、気味が悪いと感じるはずなのに。
 毒されている自分に、暗澹とした気分になる。

 さすがに学校の中でも僕を追い回しているとなれば、周囲の噂にものぼった。
「最初は、上手いことやったのに、もったいねーと思ってたけど、こりゃ振って正解だったかもしんないなぁ、お前」
「だってよ、あんなイタイ女、一度でもヤッてたら、絶対に離してくれないって!」
「笑いごとじゃねぇよ」
 憮然と呟くが、悪友どもは馬鹿笑いをやめない。ため息混じりに廊下に目をやった瞬間、僕は息を止めた。
 煮えたぎるような憎悪を込めて、こちらを睨み付ける瞳。僕の視線に気づくと、すいと行ってしまう。
 確かめるまでもない。今の話を聞いていたのだろう。
「もう既に、手遅れになってるんじゃねぇか、これ」
 冷や汗が背中を伝う気がした。



 その日ばかりは、背後に気をつけて歩いていた。何故か、いつもの視線を感じない。諦めたのか、とほっとしながら、最寄りの駅から駅へと急ぐ。
 乗り継ぎ駅のホームは、いつものように混雑していた。僕は混雑を避け、車両の後方が停車する位置まで移動する。そして、ようやく人並みを抜け、白線の内側ぎりぎりに位置を取った時だ。
 ちょうど、アナウンスが入った。それを聞きながら、僕はちらりと電光掲示板を確認する。
 ふと、背中に気配を感じた。振り返った俺の胸を、細い手が突いた。
「お前……」
 轟音を耳に聞きながら、目の前が暗転する。全てが闇へと塗り変えられる中、意識だけがゆっくりと流れていった。
 様々な言い訳が胸に浮かび、そっと溶けていく。

 ――ああ、もうどうでも良いか。

 どうせ、もう会うこともない。
 身体が一瞬だけ、感じた衝撃。焼けるような痛みが事実を認識させる前に、意識が世界を手放した。


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