眠り王子様
 昔々ある国に、一人の王子様が生まれました。
 この国の王様は、とてもたくさんの人々に愛されておりましたので、多くの人々がこの祝いの場にかけつけました。
 その中に一人、悪い魔法使いがまぎれ込んでいたのです。魔法使いは、王様が気に入らなかったので、王子が悪い人間であることを、願っていました。
 しかし、魔法使いの目には、すぐに分かりました。
 この王子が心正しく育ち、幸せな一生をおくることが。
 それが面白くなかった魔法使いは、王子にとんでもない呪いをかけてしまったのです。
「この王子は恋を知らずに死ぬだろう。なぜなら、恋を知る時、この王子は愛した女のために死ぬさだめ」
 ですが、悪い魔法使いのたくらみは、半分だけ失敗しました。そこに居合わせた、一人の良い魔法使いが、とっさに呪いを弱める魔法をかけたのです。
「そして初めて恋をした相手を腕に抱く時、その呪いから解き放たれるでしょう」
 そして、王には内緒で、もう一つの魔法をかけたのです。
 それは、せいいっぱいの魔法でした。良い魔法使いには、かけられた呪いを消し去ることはできなかったのです。
 まだそれが、どんな残酷なことかを、知らずに――




「絶対の忠誠を貴方に」
 そう誓ったのは、本心からだった。
 幼い頃から、誰よりも何よりも大切に想ってきた人だった。

 だが、それはこういう意味じゃなかったはずだ。

 気だるい目覚めと共に、浮かぶ罪悪感。隣りでまだ寝息を立てている主君を起こさぬようにして、騎士はそっと床を離れた。
 服の袖に腕を通す度、ちらつく騎士団の紋章が、更にきまり悪さを煽る。
 やはり、拒むべきだったろうか。
 寝台に背を向けたまま、そんな風に思うが、もう全ては遅いのだろう。

「――後悔、しているのか?」
 心臓が止まるかと思った。振り返らずに、ただ首を振る。
「いいえ」
「では、何故俺を見ない?」
 一度、深く息を吸った。そしてゆっくりと吐き出す。
「朝の、勤めがありますから――」
「答えになっていない」
 苛立つ主君の声に、騎士はのろのろと向きを変えた。そして、主君を見る。数年前までは、まだ稚い顔立ちだったこの主君は、今は精悍な顔立ちになられた。
(絶対の忠誠を貴方に――)
 そんな思いさえ、挫けてしまいそうな――
「失礼します」
 一礼して、騎士は部屋を後にした。

 いつから、こうなったのか、自分でも思い出せない。そのくらい、昔のことのような気がした。

 騎士の忠義は変わらない。だが、主君とそのような関係を結ぶなどということは、騎士の中では著しく、誇りを損なうことだった。
(私はあの方を、お守りしなくてはならないのに)
 その自分が、陛下の信を裏切り、殿下の将来を閉ざすような真似をしている。それが騎士には我慢のならぬことだった。

 禁忌、などというものではない。そんな言葉は、楽園の蛇にでもくれてやれば良い。
 騎士にとって、殿下は主君なのだ。それ以外、それもそれ以上の関係を築くことは、己にとって背徳に等しかった。
 ましてや、殿下はやがては妃を娶る御身。若気の至りで、側仕えの自分に気を移すことはあるかもしれない。だがそれは、一時の迷いだ。
 そういって、諭さねばならぬ自分が――
(全く、抗いもせずに)
 考えただけで、顔が熱くなる。

 ――なんだ。覚えているではないか。

「騎士殿」
 騎士は弾かれたように振り返る。
 そこにはきょとんとした顔で立つ、大臣の姿があった。
「これは……どうなさいました、閣下」
 平静を装って問うと、大臣は、本題を思い出したようだった。深刻な顔を作り、無言で自分の執務室へと招く。
 その背中を見ている内に、騎士は何やら胸に暗雲が立ち込めるような心地がした。
(――まさか、知れたのだろうか)
 いつからだ。そう前のことではあるまい。
 そもそも、関係をもったのは、殿下が十八になられた時のこと。成人の儀を終えられた後のことだ。もう、即位も時間の問題だ、と言われていた王子があの晩――

「騎士殿」
 大臣が席を勧めたのが見えた。もはや、礼を尽くすだけの余裕がなかった。青い顔で座る騎士を、この白頭の老人は、どのように見たのだろうか。いつも通りの温和な顔に、苦渋の皺を寄せ。

 ――告げたことは。

「え?」
 自分ではない、誰かが返答した。
「殿下に、呪いをかけたものがいるとおっしゃるのですか」
「いや、かけられた、のじゃよ。殿下はな、かつて――」
 老人の髭が重々しく動くのを、騎士はただ放心して聞いていた。
 あやうく笑い出しそうな自分を押さえ、騎士は無言で耳を傾ける。
「という訳なんじゃ。今まで、殿下は全く女性に興味を示さなかったじゃろう? あれは、そうした訳なんじゃ」
「――では、殿下は」
「そう、呪いから逃れるため、別の呪いをその身に背負ってこられたのじゃ」
 目眩を覚えた。もし大臣の話の通りなら、今まで騎士に囁かれた言葉は。
「王子の目には、男が女に映り、女が男に映る――と?」
「そうじゃ。呪いでは、初めに愛した女に殺されることになっておった。だから良き魔法使いは一計を案じたのだ」
 初めに恋した者の手によって、呪いは解かれる。その順序で行けば、本来ならば、死ぬ方が先なのだ。恋をした瞬間、死の呪いが発動する。それを止める事は出来ない。

 だが、魔法使いはそれを「女」と限定してしまった。そこを逆手に取ったのだ。
 最初に恋をする相手が、女でなければ――たとえば、男であれば、王子は死なずにすむ。そして、その男への恋で呪いを解いてもらえば、王子はまた女性に恋が出来る。

(ああ、そういう事だったのか)

 気の迷いではない。これは、魔法だったのだ。
 時が来れば解ける茨の護りのように、やがて夜の帳は晴れる。

(ならば、後悔はすまい。私は――確かに、騎士の役割を果たしたのだ)
 そう言い聞かせても、胸の中に刺さったとげは消えない。
 じくじくと、思い出したように痛む。

 求めに応じるべきではなかった。そこまですることはなかったのだ。
 ただ王子の抱擁だけを受け止めて、後はやんわりと身をひけば良かった。
(――愛している)
 囁かれたその一言を思い出し、笑う。主君を、ではない。自分を、だ。

 自分は騎士だ。それも王子より四つも上の、厳つい男だ。十に満たぬ幼い子供ならば、あるいはまだ二十にならぬ華奢な少年であれば、それでも中性的な美貌の優男なら、まだしも――
 自惚れもそこまでくれば、愚かしさを通り越して、もはや滑稽だ。

「このことを知るのは、今となってはわしだけじゃ。だが、王子が呪いから解ける気配はない。そして、その魔法使いも、今は行方が知れぬ」
「はい」
「そんな訳で、貴殿の幼なじみに、魔法使いがいると聞いてな。当時を知らぬとはいえ、魔法使いならば、何とか策も講じ得よう」
 自分が、どんな答えを返しているのかさえ、分からなくなっていた。ただ、聞かされた名が、懐かしい友人の姿を思い起こさせただけ。
「くれぐれも内密に、事を運んで欲しい。お主の忠義は知っておる。何としても、王子の名誉を守るのじゃ」
 そう言って微笑んだ大臣に、騎士は居たたまれぬ気持ちで、一つ頭を下げた。



 そして騎士は友人の家の戸を叩いた。
 出て来た友人は、騎士の憔悴ぶりに驚いたようだったが、それでも冷静に耳を傾けてくれた。
 騎士は、大臣に聞いた通りのことを話した。すると友人は、しばらく考え込んだ後、こんな風に問うた。
「なぁ、一つ確認しても構わないか?」
「何だ」
「呪いは、解けていないのだな?」
 ぎくり、とした。だが、出来るだけ冷静に、騎士は言葉を返す。
「さぁ、分からぬ。大臣殿は解けていないとおっしゃったが」
「それは聞いた。だが、お前の方が年も近いし、側に居る時間も長い。大臣殿よりも、お前から見た印象が聞きたいんだ」
 友人の目が、祈るように自分を見ていた。否定して欲しいのか、それとも解けているはずだ、と明言して欲しいのか。
 だが、騎士の答えは変わらない。
「――分からない」
 その返事に、彼は痛ましそうに目を伏せた。そして、あまり騎士を見ないようにして立ち上がると、淡々と次のように言った。
「その魔女には心当たりがある。早速行って、相談してみよう。話はそれからだ。おってこちらから連絡する」
 それだけを聞くと、騎士は友人に送られるようにして、自室へ戻った。



 彼が騎士を訪ねてきたのは、それから二日後の夜だった。彼は瓶を二つ携えていた。片方は青色の瓶に入っており、もう片方は赤色をしていた。
「この青色の方を、王子に飲ませるんだ。どんな方法を使っても良い。ただ、色のついた薬だから、透明な水差しには入れたら、分かるかもしれない。量は少量でいいんだ。数滴でも構わないくらいだ」
 騎士は曖昧に頷くと、その瓶を眺めた。まるで王子の瞳の色のように、青々と輝いている。
「この薬を飲ませれば、王子の魔法は解けるのだな」
「そして、恋の記憶も消える。お前の事は、ただの部下として、今まで通り」
 騎士は顔を上げ、友人の神妙な顔を眺めた。
「誰にも言わない。お前にもな」
「私にも?」
 思わず聞き返し、騎士は、ようやく赤い瓶の用途に気づいた。
「この薬は、私の分なのか?」
「ああ、その赤い方だ。良いか? 王子が寝る前に、青い方を飲ませるんだ。そうしたら、王子は一晩だけ、死んだように眠るはずだ。それを確認して、お前も赤い瓶の方を飲め」
 そうしたら、騎士からもこの記憶が消える。自分でも分からぬ、この曖昧な感情の記憶が。
「全て、今まで通り、か」
「そうだ。全てはなかったことになる」
 長い長い一瞬の後、友人は早々と席を立つと、ローブを翻し、退室する。見送ろうとした騎士に、彼は
「絶対、飲むんだぞ? 良いな?」
 強く念を押した。そして去っていく友人に深々と頭を下げると、騎士は聞こえる程度の声で、その背に声をかけた。
「ありがとう」



「王子」
 どうせ、この薬を飲ませれば、全てを忘れてしまうのだ。
「ん?」
 愛しむように、笑う。その手が、自分の長くもない髪を撫ぜる。その仕草は、はっとするほど大人びていて、もう幼いあの方ではないのだと、改めて思う。
「私は――」
 それでも変わらぬこの手の温度を。この瞳が宿す憂いも、どこか皮肉げに笑う唇も。
「貴方を変わらず、愛しています」
 この感情が主従を越えたものかは分からない。
 ずっとずっと昔から、大切に思ってきたのだ。この方の願いなら、何だってきこう。そう思わせる、ただ一人の方だった。
「初めて、聞いた気がする」
 戸惑ったように眉を上げた王子は、やがてふっと笑みを浮かべる。
「そんな顔をするな。私は嬉しいんだ。ただ、嬉しすぎて」
 しばらくその手の動きに委ね、そして、囁く言葉を聞く。
「愛している。本当だ。ずっと昔から、今日まで、そしてこれからも」
 ――これからも、ずっと。
「私の心は、貴方の元にあります」
 触れた唇から放たれた言葉が、初めての告白。
 こちらから重ねた唇が、呪いから解き放つための最後の鍵。
「何……?」
 くらり、と王子の身体が揺れた。腕が、離れていく。
 ゆっくりと寝台へ横たわらせ、その身体に掛布をかける。一連の動作は、どこか抑えたような事務的な動きだった。まるで、自分の身体ではないようだ、と笑う。
 閉ざされた瞼が再び開く時、もうこの人にとって、自分はただの一騎士に過ぎない。
 それでも。
「ずっと、ずっと、永遠に」
 たとえ、主従と呼べなくとも、この人だけが、自分の主君だ。

 身体を起こした騎士の身体から、瓶が滑り落ちた。
 ことん、と空瓶が床の上を転がる。それを拾い、ふともう一つの瓶を取り出す。
(絶対に、飲むんだぞ?)
 ふと、友人の切羽詰まった顔が浮かんだ。騎士は、小さく笑う。
 本当にありがたいと思った。これ以上、ないくらいにありがたいと思ったのだ。何も言わずとも分かってくれる友人の存在が。
 申し訳ないのだけれども、その好意に甘えさせてもらうのも、友情なのかもしれない。
「ありがとう」
 そして、すまない。

 騎士はおもむろに、その瓶の蓋を開けた。



 朝、慌ただしく廊下を駆ける二つの足音があった。
 一人はローブ姿の魔法使い、そしてもう一人は王子様。
 前を行く王子に導かれるようにして、魔法使いは彼の部屋へと向かった。そして、彼が使っていたというその部屋を見て、一目で状況を把握したのだった。
「ああ……」
 魔法使いは、悟ったのだ。彼が選び取った道を。
 静かにカーテンが揺れていた。おそらく、窓から脱出したのだろう。騎士が無断で出奔する事は、すなわち叛逆と同様だというのに。
(やはりお前は、こういう生き方しか出来なかったのか――)
 渡した瓶が二瓶、机の上に綺麗に鎮座していた。
 その内の一つは空だ。だが、もう一本は。彼が調合した、ラベル付きのものは。
(馬鹿。飲めといったのに)
 瓶を手に取った魔法使いは、中を確認もせず、思い切り床に叩き付けていた。
 飛び散った赤い破片が、まるで血のように見えた。
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