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(死に逝く子供達が運命を選べなかったように、僕もまた、その義務を選べない)
 あの時は、その考えが間違っていると思った。
 どうして一人で背負っていくのだ、と苛立った。そこまで思う必要がどこにあるのか、と。
 けれども、今ならば、分かるのだ。
 それだけの立場にあるものが、役目を全うしないのは、罪なのだ、と。
 貴族の血をひくキルシュが、その責務を負わずに済んだのは、幸運とも言えるし、逃げたとも言えるのだろう。
 だが、それでも。

 キルシュの考えは何一つ変わらず、今も同じ正解を掲げ続けるのだ。



 小さく、扉を開けた音に、彼は即座に反応し、こちらへと目を向けた。この些細な音を聴き逃さないのは、彼がそれだけ周囲に気を張っている証拠だろう。
 わずかに見せる、そんな顔に、胸が痛む。
「キルシュ……ビバルディ」
 何故君が、という問いかけに、キルシュは一礼し、お話が、と切り出した。
「話?」
「……ええ」
 別に構わないが、と和やかに応じるヨーゼフは、王の死後の混乱から大分立ち直っているように見えた。少なくとも、表面上は。
 ただ、キルシュには分かる、変化が一つだけ。
 本来はそれを喜ぶべきなんだろう、と冷静に思う。けれど、結局は、と小さく呟いてしまう声は、きっとわずかに恨みがましいのだろう。
 だから絶対に、それを指摘してなどやらない。
「――大分、落ち着いたのかい?」
「え?」
 そちらは、と問われ、自分のことを聞かれているのだと気づく。キルシュはわずかに苦笑しながら、首を横に振った。
「我々は変わりませんよ。王が変わったところで、司法の庭は揺るがない」
 そうではない、とかぶりを振ったヨーゼフは、いつになく気遣わしげな目でキルシュを見た。そんな彼の表情がかえって新鮮で、思わずぽかんとする。
 するとヨーゼフは、少し苛立たしげに目を細めて言った。
「君のことだ」
「え?」
「君が、大丈夫なのかと聞いている」
 はぁ、と間の抜けた回答をし、キルシュは違和感の元に気づいた。
 なんだかんだでこの人は、今まで自分に対して、こういう視線を投げかけたことはほとんどなかったのだ。
 いつだって、キルシュにとってのヨーゼフは、少し身勝手な人。
 子供の頃ならいざ知らず、今となっては辟易もする。ぼやきもする。文句も言う。けれど、改めて考えれば、その距離がほんの少し、だけ。
 重症だな、とぼやきながら少し考え、キルシュは強くかぶりを振った。
「私が気遣われることなど、何もありませんよ」
「しかし」
「私は父を、そして一族を、憎んでこそいるけれど、それは振り払える程度でしかないのですよ。それほどの想いは、残してはいません」
 その想いは、一度たりとも変わらない。だからキルシュは、迷いなく明言する。
「俺は死ぬまで、あの人を認めることはない」
「お父さんを?」
「そう」
「たとえ、理由があったとしても?」
「どんな理由があっても、信念を同じくしていても」
 哀れとも、悲しいとも思わない。少なくとも彼は、言ったのだ。抗えなかったのではなく、それを選んだのだろう、と。
 彼がそれを選んだ限り、キルシュの気持ちは変わらない。
「俺が、彼を許せない。彼のしたこと、彼のしようとしたことを、俺は絶対に許せないんだ」
 たとえキルシュを、母を想う気持ちがあったとしても、あの人が母を破滅へ導いたことに間違いないのだ。生まれてきたことに感謝出来るほど、キルシュは自分の価値など重くみていない。
「何故、貴方がそんな顔をするのですか」
 貴方が思うほどの価値もないだろう、あの男は。
 そんなキルシュの疑問に、彼は強く頭を振って、言った。
「君は、この世界を恨んだことはないのか」
「恨むほど、最悪な人生ではありませんでしたから、俺は」
 貴方こそ、と問うたキルシュは、次の瞬間、信じられない答えを聞いた。
「僕は恨んださ。何度もね」
 耳を疑った。けれど、キルシュに見えるヨーゼフもまた、その言葉に相応しい顔をしていた。
 あの儚げな、すぐにも消えそうな笑みとは似ても似つかない、薄暗い目を向けて。
「ひたすら与えられる世界に疑問を持たず、何も変えようとはしない。その状況に、危機感すら覚えない。そんな仕組みを作ったあの女を賢王だのと祀り上げて、それが当然と疑わないあの場所を。それが奇跡なのだと教えることもせず、そのまま死んでいったあの女も」
 ああそうか、とキルシュは改めて思う。
 泣くことを耐えていた、あの横顔。あれは、彼が恨むことを知らなかったなら、浮かぶことのない表情だったのだろう。
 彼は、キルシュが与えるまでもなく、知っていたのだ。
 世界を恨む術を、理不尽さを、自分の生きる世界が正しくなどないことを。
「だから僕は、城を出たんだ。僕に見える世界が狭いからだ、と、ただそれだけを信じて」
 広い世界の果てに、ヨーゼフは何を見たのか。
 キルシュは知っていた。答えなど聞かなかったけれど、ずっと横にいたのだ。そしてヨーゼフが聖人ではないのなら。

 彼にとってあの世界は――

「理屈は分かってた。本当はね、理屈でこそ分かってた。王族である僕が、負わなければいけない責務から逃れられないことは、物の道理というもので、何も恨むことでもないのだ、と。だから、ここから逃げる気はなかった」
 それこそ、世界の仕組みなのだ。誰もが、自分の境遇からは逃れられない。
 ヨーゼフが言った通りだ。彼は優しさではなく、理性でそれを弾き出し、それを全うする義務を果たしてきたのだろう。
 何故、とキルシュは問うてしまう。
「それが分かっていたのに、貴方は」
 そう在り続けたのだろうか。その問いに、ヨーゼフは相変わらず、暗い目で答える。
「僕だって、見えないものの為になど、生きられなかったよ」
「じゃあ、何の為にですか」
 その問いに、ヨーゼフは口を開こうとし、曖昧に言葉を濁す。
「陛下……?」
「確かに、僕は選べなかった。だけど、僕に与えられた力は、確かに、誰かの世界を変えることが出来る」
 だから幸せなんだよ、僕は。
 当たり前のように言い、ヨーゼフはにこり、と笑う。
「僕がどう感じようとも、世界は誰に対してだって理不尽だ。人が、誰かを愛したとしても、その人の為の、パンや薬さえ、与えることが出来ない。その機会さえ与えられない、そんな世界があること。そして、そんな世界で生きていかねばならぬ人がいること。そのことに変わりはない」
 だから、とヨーゼフは、何てこともないように言う。
「世界を素晴らしいと思える理由があるなら、僕はこの立場を良しと言えるさ」
 そっ、と柔らかく耳元に添えられた手を、強く引き寄せる。
「キルシュ……っ」
 戸惑うその人の声を聞きながら、肩へと手を伸ばし、腕の中に抱え込む。
「貴方は、昔から変わらない」
 分かっている。
 ずっとずっと昔から、記憶すら曖昧な中でも、当たり前の様に根付いている。
 生きていく内に積もっていく、色々なしがらみも、沢山の想いもあるけれど、その根源にあるのはたった一つ。

 この人だけが、キルシュの戦う理由だった。

 この人こそが、キルシュの生きる理由だった。
  

素材配布元:「神楽工房」様