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 ――六年前。

「キルシュ! 止めるな!」
「馬鹿、よさないか!」
 司法院の中でも、最奥にして禁断の間。ごく一部の人間しか、入ることを許されない場所。
 大きく息を切らせている金髪の少年を、もう一人の青年が必死になだめる。
「アリュード、立場を考えろ。お前は、ヒルズ家の次期当主なんだぞ! お前が……」
「だからだろう!」
 張りのある声。
「俺はヒルズ家の者だ。この司法の庭を守るべき、ヒルズ家の人間が、ここでひくことなんて出来ない」
 アリュード・ヒルズは、はっきりと、そう口にした。
 しばしの沈黙の後、黒髪の青年は、はぁ、とため息を落とす。
「仕方ないな」
「キルシュ」
 不安げに見つめる少年を、安心させるように、彼はにこりと笑った。
「司法官として、法の尊厳を守り通す義務があるのは、僕も同じだからな。一つの家に、押しつける訳にはいかないよ」
 行けよ、と背を押した後、駆け足で行くアリュードの背を見送りながら、キルシュはふいと天井に目をやった。
(さて、どうしたものかね)
 今後の出方を模索する。
 そんなキルシュの肩を、ぽんと叩く手があった。
「……困ったものだな、あいつも。お前の立場など、考えもしない」
「セリカ」
 同期のセリカだ。キルシュはほっと表情を緩め、軽く肩をすくめた。
「心配するな。僕はどうやっても、生きていけるよ」
「キャサリンのことがなければ、だろう?」
「あってもなくても同じだよ」
 何でもないように言いきると、彼は皮肉をこめて、そっと呟く。
「どうにでもなるのさ。本当はね」
 こつこつと廊下を歩き、自分の執務室へと向かう。
 その途中、キルシュはふと窓に手を置き、足を止めた。
 窓越しに見る光景。
 ああして、無邪気に花畑で遊ぶ光景は、とても楽しげでほのぼのと胸を和ませるはずなのに、キルシュの中では微妙な影を落とす。
 近所の女の子がかぶる花冠を、ひどく羨ましそうに見ていた、病床の妹の姿が重なる。
 取ってきてあげる、と少し遠くの花畑へと行き、見よう見真似で作り出した。
 当然の如く、手元のそれは悲惨なことになったが。
(――いつか)
 ふっと、記憶に光が燈る。
 それはほんの少しの悔しさと、ほんの少しの苦笑いと、そして優しい思い出。

 あれはちょうど、花冠を作り始め、ものの見事に失敗した時のことだった。
「ねぇ、僕にも作り方を教えてくれないか?」
 振り返ったキルシュは、一瞬動きを止めてしまった。
 この辺りでは見たことのない子供だった。
 とても育ちの良さそうな男の子だった。ただ、本人は気づいているのか分からないが、目が赤く、強くこすったような跡が見受けられる。
 思わず笑みで迎えてしまった。
 すると彼は、本当にほっと表情を緩ませて、ちょこんと横に座った。
 その座り方もまた、上品に足を揃えたもので、キルシュは子供心にはぁん、と思った。
 この子はいいお家の子供なのだろう。それだけに、厳しいしつけがあるに違いない。そんな生活に疲れ、お小言の途中で泣きながら飛び出してきた、というところではないか。
(子供も、大変だよな)
 そんな軽い同情心から、キルシュは花冠の作り方を教えてやった。
 もちろん、自身も見よう見真似で作っているのだ。まともな教え方など、出来ようもない。
 だが、奇跡が起こった。
「これで、いいのかな?」
 遠慮がちに掲げられたのは、キルシュが望んでいたもの、そのもの。

 今から思えば、奇跡でも何でもなかったのだろう。
 たかが花冠だ。キルシュが作れなかったのは、彼が不器用だったから。
 だが、その時のキルシュには、奇跡のように思えたのだ――

 ふっと日が陰り始め、キルシュは追憶から現実へと引き戻される。
(奇跡、か)
 キルシュの周囲には何故か、天才気質の人間が集まりやすい。
 アリュードもその一人だ。
 だが、その彼の才は残念ながら、普段は全く人に知れることがない。
 キルシュがそれに気づいたのは他でもない、彼がアリュードの悪友として、十年近い付き合いをしているからだ。そうでなければ、まず知ることなどないだろう。
 おそらく、アリュード当人でさえも、意識していない。
(それがいいのか、悪いのか……ね)
 そっと苦笑いを浮かべ、キルシュは再び足取りを早めた。

 その時、司法院が起こした騒動は、当時絶対的な権力を持っていた国王から、その権利の幾許かを司法院へと返還させることに成功する。
 法治国家としての起源をもつ、司法官の国、ファーシルの本来あるべき姿を取り戻した、歴史的に意義のある事件。
 その渦中にあり、指導者として名を馳せたのは、名門ヒルズ家の次期当主、アリュード・ヒルズ。
 そして、その参謀として、ずっと彼と共に戦い、陰からずっと支え続けた平民出身の、一人の青年。

 キルシュ・ビバルディの名は、この時から、人々の記憶に刻まれたのだ。

素材配布元:「神楽工房」様