何だったんだ、あの夢は。
 相変わらず、あまり乗り心地が良いとは言えない馬車に揺られながら、僕は今朝がたの夢について、思いを巡らせていた。
「……という話だが、大丈夫かリュージ」
「ん?」
 がたん、と身体が浮いた。口元を押さえた僕を、覗きこむ顔。
「気分でも悪いのか」
「ん、大したことじゃない。ちょっと寝不足なんだ」
「寝不足」
 髪に触れた手に、飛びかけていた意識が引き戻される。
「ちゃんと眠れているのか?」
 その瞳を真正面から見据えると、ずきり、と胸が痛む。
「昨日は寒かったからな。あまりそういうのに慣れてないし」
「ああ……」
 頷くクレオを見ていると、否応なく、夢のことが思い出された。
「リュージのいたところは、暖かかったのか?」
「うーん、どうかな。やっぱり寒い時と暑い時があるんだけど、その入れ替わりがもっと長い周期で起こるんだよ。だから、いきなり冷えるとか、そういうことはあまりない」
 突然冷え込む、という表現はするが、この説明で間違えてはいないだろう。
 少なくとも東京で、夏に氷点下になったり、冬に四十度を越えたりしたら、それは立派な異常気象だ。
「そうか」
 何だか感心している。
 わずかな表情の緩みに、僕は夢の中の、今よりも若い頃の彼を重ねてしまう。昔の彼など知らないはずなのに、何故あんな夢を見てしまったのか。
 何となく落ち着かない。
 そんなことを繰り返している内に、気分が最高潮に悪くなった僕は、目的地よりやや手前の宿場町で休憩を余儀なくされる羽目になった。



 ざーっと手押しポンプから流れる水を、両手で受けとめ、ばしゃりと顔を冷やす。
「少し、治まったか?」
「あー……まぁ、胃の中のものは吐き出したからな。少し、楽になった」
 寝不足だ気分が優れないだのと言いながら、朝食はきちんと成長期の男子並みに取ってきていたのが災いしたのか。
 自分の意地汚さに、少しだけ切なくなった。
「乗り物酔いは、初めてかも」
「馬車は揺れるからな。疲れていると、すぐに来るぞ」
 クレオはまだポンプから手を離さぬまま、そう言った。
 自分で使ったことはないが、軽くはないように見える。それをざかざかと片手で使うのだから、何となくコンプレックスを感じる。
 もちろん、クレオが特別なのであって、僕はこの世界において平均的な男性といえる。
(いや)
 僕じゃなくて、フリージオ王子か。
 もっとも僕自身も、フリージオ王子とさほど体格は変わらないのから、間違いではないけれど。
 フリージオ王子の身体は、最初こそ馴染まなかったけれど、慣れてくる内に自分との類似点に気づかされた。
 もちろん、多少の違いはある。けれど背丈や体格は、ほとんど僕と変わらない。
 体育の成績が悪かった訳ではないが、どちらかというとインドア派の僕と、召喚術師でありながら、王子という立場上、最低限の運動を強要されたというフリージオ王子の体格が同じくらい、というのも、なかなか複雑な話だ。
 日本の高校生は、この世界の王子様並みか。
「立てるか?」
 肩に手を置かれた瞬間、僕はびくりと飛び退いた。
「あ……」
 とっさにはたいていた自分の手と、相手を見比べ、僕は呆然とする。だが、クレオは特に気にした様子もなく、ただ笑っただけだった。
「すまない。驚かせたな」
「い、いや、違う。そんなことはないんだ」
 そんなことはないって、何がだ。
 動揺する頭が、ふとエルリックから聞いたある単語を導き出した。
 同性愛者恐怖症。
 まさか、と思った。第一、彼は言っていたではないか。この世界では、普通のことなのだと。だとしたら、他の人間にも拒絶反応を示してもいい。
 それに僕は応えたはずだ。
 クレオは良い奴だ、それは何も変わらない、と。
(本当に?)
 フリージオ王子とクレオの関係を聞いた上で、僕はそう言い切れるのか。

 どこからか、鐘の音が聞こえた。
 その音ではっと我に返ると、出来るだけさり気なく、クレオの方を振り返る。
「悪い、時間を取らせたな」
「それは構わないが……」
 言外に気遣いを感じ、僕は早口でそれを遮る。
「町まで、まだ遠いのか?」
「約一時間といったところだな」
「なら、いける。三時間、とか言われたら、勘弁だけど」
 そう応えると、彼に背を向け、馬車の方へと急いだ。
 彼は何も言わなかったし、それ以上、絡むこともない。
 そんな彼の優しさが、いっそいたたまれず、僕は心中で何度目かになるため息を落とした。



 宿場町を出た辺りから、悪路が増えてきた。
 がたん、と右に振れれば、次の瞬間、だん、と左に落とされる。
 前の町で、全部吐き出しておいて良かった、と思ったのは数分。すぐに胃液が逆流するような感覚に悩まされることになった。
 ばれるかな。
 ちらりとクレオの様子を窺う。

 彼は僕を見ていなかった。目を凝らし、窓の方を向いている。
 どこか投げやりにも取れる、窓枠に肘をついた体勢。黒衣の騎士が見せる、物憂げな横顔に、僕は単純に見惚れ、そして申し訳なくも思った。
 フリージオ王子も、こうしてクレオを見ていたのだろうか。
 肘をついているせいか、口元を隠すように添えられている手は、やはり僕のものよりは大分ごつい気がする。軽くひそめられた眉が、揺れる度に、ぐっと力をこめるように歪められる。
 ……あれ?
 心なしか、クレオの表情が険しい。
 さっきのことがやっぱり不愉快だったのか、とも考えたが、どうもそんな感じではない。いつもの余裕がなくなっているような、そんな顔だ。
 ひょっとして。
「うわっ!」
 がたん、と腰が浮きあがった。その拍子に、前のクレオもどん、と壁に額を打ち付けてうめいている。かなりダメージがあったのか、しばらく動かないままだ。
「クレオ……」
「ん?」
「一旦、止めてもらえるか?」
「分かった」
 短く応えると、クレオは何とか振り返って、御者に声をかけている。
 馬車の外に降りると、僕は大きく深呼吸をした。
 地面につけた足が少しだけふらつくが、思ったより大丈夫そうだ。ぐるりと見れば、やや遠くに集落のようなものが見える。
 あれが、目的地だとすれば、そう遠くはない。
 ちらりとクレオを振り返れば、席についたまま、額を押さえて天井を見上げている。目は閉じられたままだ。
「なぁ、クレオ。ここから村まで、歩いていけないのか?」
 彼が薄く目を開けた。だが、クレオが答えるよりも先に、御者台から大声が届いた。
「ああ、リュージ様。やっぱりこの道で馬車はきつかったですか」
 いつ聞いても、元気な声だ。
 最初の頃から、ずっと馬車を出してくれていた顔馴染みの御者は、豪快に笑いながら言った。
「俺もリオデラート様にそう言ったんですけどね。あの方、きょとんとした顔で、馬車でなければ行けないだろう、なんていうんですよ。馬車で酔うなんて、想像も出来ない方だから」
「そいつはツワモノだね」
「神経が切れているんですよ。あの方は、感覚が鈍いんだ」
 なるほど、と強く頷いてしまう。
 一見、マトモなリオデラートだが、やはりクレオの友人だ。どこか一ヶ所くらい、そういうところがあっても不思議ではない。
 妙なところで感性を分かち合った同朋は、軽い口調で付け足してくれた。
「で、村まででしょう? ここまで来れば、歩いても二十分くらいですが、ただ賊や魔物が出るかもしれませんね」
「だが、それは馬車でも同じだからな」
 振り返ると、クレオが隣りに降り立つところだった。まだ顔色は戻っていないが、それでも幾分か笑みを浮かべる余裕があるほどには、回復したようだ。
「歩いていくなら、それでも良いが」
「じゃあ、頼めるか? 外の方がまだ、気分が楽かも」
 地面に降り立ったクレオは、さすがと言おうか、ほとんど動じた様子はなかった。一瞬、無用な気遣いだったかと、内心で苦笑するほどに。
 だが、先に村へと向かった馬車を見送りながら、行こうかと振り返ったクレオは、すっきりと晴れやかな顔をしていて、彼に見えない位置でこっそりと笑ってしまった。



 道を歩く間、何となく取り留めのない会話を交わしていた。
 クレオも僕も決して寡黙ではないが、さほど話す方でもない。それでも、人のいない田舎道を黙りこくって歩くのも気がひけて、自然と口数が多くなった。
 この世界のことについて、僕が質問する。クレオが答える。それを聞いて、僕は自分の世界のことを話してみたりする。
 その中で、クレオが興味を示したのは、学校の話題だった。
「学生が制服を着るのか? 面白いな。では、リュージも制服だったのか」
「そうだよ。俺は中学が学ランで……あー、金ボタンで前を留めるようになってる、詰め襟の黒服だった」
「こんな感じか?」
「や、もっとダサイ。つーか、クレオの服って、金ボタンじゃないだろ」
「金ボタンの方が映えるのではないか?」
「やめとけ。ぜってー、ダサイ」
 そうは言ったものの、僕だって別に服装センスがいい訳じゃない。制服がダサイと感じるのは、無理矢理それを着せられているような気がするから、という子供じみた理由に過ぎない。
 けれど、これは自信を持って言える。
 クレオに学ランは似合わない。
 だから今、クレオが着ている服は、学ランよりまともなんだと思う。
「クレオのそれは、どの隊の制服?」
「団長代理、だな」
「そんなのにまで、制服があるのか?」
「いや、半ば私服だ。大まかな型だけが指定されていて、後は個人で決める」
 つまり、この真っ黒い服は、当人の好みということか。
「じゃあ、クレオは特別なのか」
「いや、そうではない。騎士団には元々、これという制服はないんだ。任務によって、服を換える」
 彼の説明によると、王宮の警護をする時はこの服、町の警護はこの服、と決まっているらしい。それが隊ごとの制服のようになっているが、本来は用途に合わせて着替えているだけなのだという。
 それで納得した。
「なぁ、もう一つ質問」
「なんだ?」
「クレオが代理ってことは、本物の団長がいるんだよな。その人、どうしてるんだ?」
 何気ないことを聞いたつもりだった。だが、クレオは少しだけ難しげに眉を寄せる。
 聞いてはいけないことだったのか。
 だが、クレオは口を濁すことなく、はっきりと言った。
「前団長は亡くなられた。他にも、騎士団の重鎮は亡くなられるか、病に伏せっておられるかで、これという指導者がいなかった」
「それで……クレオが」
「陛下から命を戴いたとはいえ、やはり俺のような若造に総団長は務まらんよ」
 考え事は苦手なんだ、と空を見上げるクレオは、また遠い目をしている。
「この国が落ちついて、病気で伏せっておられた方々が戻れば、俺はこの地位をお返しすることが出来るんだ」
「そうしたら、クレオはどうするんだ?」
「さぁな。先のことは分からん。その時、また考えればいいさ」
 そんな投げやりな答えが、意外だと思ったけれど、彼が育ったというあの谷を思い浮かべると、彼らしいとも思えた。
 風の吹く谷に生まれた彼の思いは、いつも空にあるのかもしれない。

 だから彼は、こんなに余裕を見せていられるのだろうか。

 僕がクレオに、あってはならない反発を感じるのは多分、そのせいなのだ。
 心が悲しみで埋め尽くされている時、他人を気遣う余裕なんて、なかなか生まれるものではない。傍から見ればどれほど理不尽であっても。
 だから、ヒステリックなシェスタの反応でさえも、普通だと感じてしまう。
 愛した誰かを亡くすというのは、それくらい辛いこと。
「ごめんな」
「何故」
 突然の謝罪に、クレオは訳が分からないといった顔をする。だが、理由など言えるはずもなくて、僕はただ笑う。
 ちょうど、村の入り口が見えてきた辺りでだった。クレオの表情が、がらりと一変する。
「リュージ」
 遅れて、僕も気づいた。鼻を突くような異臭に、思わず口元を押さえる。
「これ、は……」
「死人がえりというやつだな」
 そう言いきったクレオの手には、既に抜き放たれた剣があった。

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