「すまない。この部屋で待っていてくれ」
 騎士団の本部、一室に僕を残すと、クレオはここの隊長に話があるといって、出て行った。残された僕は手持ち無沙汰で部屋の中をうろつく。
 退屈な時間は苦手だ。
 元々は怠惰な性格だ、退屈が嫌いではなかった。だが、今となっては、少しでも詰まっている方が良い。
 だから僕は、響いたノックの音にほっとしてしまった。さした警戒感もなく、戸を開ける。
「早いな、クレオ……」
 だが、そこに立っている人物を見て、僕はあわてて後ろに下がった。
「すみません、人違いを。ええと」
「エルリック」
「へ?」
「俺はエルディラート=ファン・グランという。君は?」
 突然問われた僕は、何となく男の雰囲気に押されて答えてしまった。
「リュージ。リュージ・ヤマザキ」
「リュージ……」
 口の中で名を呟きながら、彼は薄い唇を三日月に開く。
「フリージオ、ではなく?」
「……フリージオ?」
 心臓がはねあがった。
 それは僕ではない。だが、今の僕を表す名としては、そちらの方が正しいのかもしれなかった。
 第三王子、フリージオ。
 だが、僕は平静を装って、鼻で笑う。
「人違いだよ。俺はフリージオなんて名前じゃない」
「ほう? では、クレヴァリア団長とどういう」
「俺はリオデラートの紹介で来た。その時に、クレヴァリア団長と会ったんだが……フリージオとは誰のことだ?」
 出来るだけさり気なく、すらすらと嘘を述べたてる。
「そうか、失礼。俺も人違いをしたようだ」
 男は納得していないようだったが、一応矛先をおさめた。そっと安堵すると、僕は改めて彼を観察してみた。
 カラフルなこの世界には珍しい黒髪に、チョコレート色の瞳。彫りの深い顔に長身の美男子だ。
 ……あれ?
 誰かに似ている気がする。
「では、リュージ」
 そう呼ばれた瞬間、僕のある記憶が小さく軋んだ。僕は、これと同じ声を聞いたことがある。
「貴方は何者だ。俺に何の用がある」
「名前は教えたはずだが」
「名前はな! そうじゃなくて……」
 もどかしく髪をかきあげた僕は、先ほど彼が名乗った家名を思い出す。
「グラン? 確か、クレオの名はクレヴァリア……」
「クレヴァリア=ティオ・グラン」
 まじまじと彼を見上げていると、無造作に視線を外された。みるみる内に、不機嫌そうな顔になる。
「ふん、その様子だと特に知り合いという訳ではないようだな。リオデラートからの紹介というのも、嘘ではないのか」
「貴方は、クレオの……」
「兄にあたる」
 それを聞き、僕はようやく納得した。
 顔は似ているが、雰囲気はまるで違う。クレオは素直で真面目な印象だが、彼はやや崩れた感じがした。
 その印象は、次の言葉で裏づけされた。
「もっとも、互いに家族だとは思っちゃいないがな」
 そうだろうな、と声に出さぬまま思い、僕はそっけなく尋ねた。
「それで、エルディ……ええと」
「エルリックでいいよ、リュージ」
「……エルリック殿。僕に何の用ですか」
 慎重に尋ねると、彼はあっさりと答えてくれた。
「いや、君にというよりは、フリージオ王子殿下に、だよ」
「はぁ」
「死んだはずのフリージオ殿下が、どうしてここにいるのか、と思ってな。どうせ弟に聞いたところで、大事な大事な主君のことなど話してくれるはずもないし」
 投げやりな風を装っているが、言葉の端々に消しきれない棘がある。それを聞き流しながら、僕は軽く手を横に振った。
「死んだ人間が、ここにいるはずがないでしょうに」
「確かに、公式発表では、そうなっているな。けれど、墓には遺体がないともっぱらの噂だ。生きているとしても不思議はない」
 内心でぎくり、とした。怠惰に見えるエルリックだが、その瞳を鋭く細めてこちらを見る仕草は、まさに猟犬のそれだ。
「俺はてっきり、禁忌の罪でも犯して出奔したのかと思っていたが」
「……禁忌?」
「そう、禁忌の」
 言葉一つ一つの効果を試すように、こちらを覗き込んでくる。僕は動揺を悟られないようにするので精一杯だった。
 長い沈黙が流れる。
「隊長!」
 その緊迫は、駆け足にさえぎられた。エルリックの舌打ちが聞こえ、僕はそっと肩の力を抜く。
「こんなところにいたのですね。クレオが待っていますよ」
「待たしておけば良いだろう」
「また、そんなことを。いくら兄とはいえ、クレオは竜騎士団の元帥なんですから、あまり無礼な態度は」
「分かった分かった」
 面倒くさそうに手を振ると、エルリックは思わせぶりにこちらを振り返った。
「ではリュージ。また」
「……ああ」
「今度は、ゆっくりと話してみたいものだな」
 お断りだ。
 そう言いたい気持ちを堪え、僕は愛想良く笑みを浮かべてみせた。



 結局、夜になっても、クレオは戻ってこなかった。
 伝達をもらっていたものの、どうにも退屈さと心細さは拭えない。
「失礼します、リュージ様」
 うやうやしく入ってきたのは、ちょうど僕よりも数才下くらいの少年だった。周囲の騎士達と同じ型の服を着ているところから、やはり騎士なのだろうと見当をつける。制服の色が違うのは、見習い騎士だからなのかもしれない。
 彼は緊張した面持ちで、服の入った衣装箱を置こうとしていた。
「ええと、お召し物をここに」
「……頼むから、その話し方はやめてくれ」
 ついに堪えられなくなって、両手を挙げた。
「俺はそんな大層な人間じゃないぞ」
 そうぼやくと、少年は戸惑ったように僕を見つめ返してきた。
「でもリュージ様は、王宮に務める召喚術師だと伺ったのですが」
「誰だ、そんなことを言ったのは」
「隊長です」
「あの野郎……」
 本人を目の前にしたら、とても言えないようなことを呟く。それを聞いて、彼はころころとまだ高い声をあげて笑った。
「じゃあ、召喚師じゃないんですか?」
「そんな大層なものじゃない。ごく普通の、一般市民だ」
 少年は、ほっとしたような、がっかりしたような複雑な表情を見せて、そっと息を吐いた。
「そうですよね。召喚術師なんて、なかなか会えるものじゃないですし」
「そんなに珍しいのか?」
「ええ、それはもう。世界に十人、いるかいないかと聞いています」
 僕はとっさに、リオデラートの話を思い出した。
 異世界から僕の魂を召喚した、この身体の持ち主、フリージオ王子。彼は一体、何者なのか。
「じゃあ、フリージオ王子は……」
「ああ! 凄いですよね。王族で、召喚術師。憧れちゃいますよ」
 ぱっと少年の顔が明るくなった。そして興奮した口調で、後に続ける。
「あ、僕、フリージオ様にお会いしたことがあるんですよ。本当に子供の頃ですけどね。金髪の、すごく格好いい方でした」
「金髪?」
 無意識に、髪を手繰った指が、赤い束をすくう。
「ええ、そうです。噂通りの、お優しい方ですよ」
 少年は無邪気にそういうと、時計を一瞥した後、大慌てで部屋を出ていった。残された僕は、じっと考えに耽る。
 一体、どういうことなのだろうか。
 結論が出ないと分かっていながら、その思考ゲームに没頭していた僕は、徐々に浅く、時に深い眠気の波にさらわれていった。



「ただいま」
 学校から帰った僕は、惰性でそう呟く。
 だが、呼応する返事はなかった。
 この時間は、電話に熱中している頃だ。母親はいつも、僕が帰ってきたことには気づかない。だが僕はそれ以上は自己主張をせず、リビングをすり抜けて階段の方へと向かう。
 それが日常だった。
 だが、母のある言葉が聞こえ、僕は足を止める。
「そうなのよ。うちもね、上の子は全然駄目。本当に、ぼんやりとしていて。下の子の方がしっかりしているわね」
 何気ない言葉だった。何てことのない、ごく当たり前の。僕も軽く聞き流し、上へとあがり、自室のドアをノックした。
 返事はない。
 そのまま戸を開けると、暗い室内が目に入る。いつものごとく、まだ妹は帰っていないようだ。おそらく、部活と称して、友達と遊び歩いているのだろう。
 僕は壁のスイッチを押すと、カーテンをひいた。片手で制服のボタンを外しながら、ハンガーを探す。その目が、妹の机に置かれたプリントで止まった。
 無造作に放り出してあったそれらからは、赤ペンで書き殴られた数字がはっきりと読み取れた。
「100」
 五枚ほど放り出されているそれらの数字は、ほとんどが100か、その付近を示していた。
 いい加減なところのある妹は、適当に机の上に放り出したらしい。くしゃくしゃになっているテスト用紙からは、妹にとって、これらの点数が何ら意味のないものだということが良く読み取れる。
 ……ちょっと待てよ。
 妹がまともに勉強しているところなんて、ほとんど見たことがない。テスト前日でさえ、妹は家でごろごろと寝ていた。
「は、はは……」
 乾いた笑みが浮かんだ。
 それまで僕は、いわゆる良い成績を取っていた。順位こそ張り出されないが、教科ごとの上位者には必ず名前があったし、自分でも頭の良い部類だと思っていた。
 お兄ちゃんは、頭がいいから。
 そう妹に言われる度に、そんなことはないと思いながらも、どこかで得意になっていた。
 でもそれは、ひたすら勉強して、ようやく手に入れていた地位だ。そこまでして僕は、トップにはなれなかったし、満点を取ることは難しかった。

 ――なんだ、お前の方が頭良いじゃないか。

 目眩がした。
 軽く机に手をついたまま、僕はじっと目の前の事実を見つめ続けていた。

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