お幸せに
やや早足で、店から出て来た青年は、手に握っていた携帯を耳に当てた。
「ああ、久しぶり。どうした? 今? 外だよ、外。ああ、大丈夫だけど」
居酒屋のネオンを見上げながら、何度か電話口に相づちを打った後、青年は少し驚いたように目を開いた。
「そいつはおめでとう」
おどけた口調で言った後、ぶるりと身体を震わせる。着信に慌てて出て来たのだろうが、薄着でいるような季節ではない。
「それで、式はいつ? は? 何だって? 三月?」
やや声を上ずらせ、青年は小刻みに足踏みを繰り返す。自然、口調も早くなった。
「また、ずいぶん急な話だな。どうしてそんなに」
途中で言葉を止めると、いぶかしげな顔をして、携帯を持ち直す。何度か聞き直し、青年はあんぐりと口を大きく開いた。
「できちゃったぁ?」
その声に、通行人が振り返るのが見え、慌てて青年は声量を抑えた。
「って、二人とも学生だろ。どうするんだ、これから」
ぼそぼそと背を曲げながら話す図に、周囲の目は冷たい。特に年輩者の視線はきつかったが、彼は弁明に必死で気づいていなかった。
「……悪いとは言ってないって。何でそうなるんだよ……ああ、確かに関係ないな。余計な口を挟んで悪かった」
ぶっきらぼうに言い捨て、切ろうと指を動かしたが、あちらの方で動きがあったのだろう。しばらく耳をかたむけていた青年の表情は、少しずつ和らいでいく。
「いや、怒ってないよ。……式? 行くよ、行くってば」
しばらく黙って、相手方の言葉を聞いていた青年は、ふと神妙な顔をした。
「他人行儀なこと、言うなよ。俺ら、幼なじみだろ。気にするなって」
強い、けれども優しい声で通話を終えると、青年は軽い足取りで店内へと戻っていく。その表情には、何の屈託もなかった。
珍しく照れた様子で、想い人の元へ駆け出していく。そんな幼なじみの背中を見送った後、ふと視線を上げ、鼻先に揺れる薄い桃色の花びらを見て笑う。遠くの喧燥が響く昇降口。春の雪が舞いこむ渡り廊下。淀んだ季節外れのプールが見える窓。それらを眺めながら、少年はある一室へと向かっていた。
まだ何も貼られていない廊下の掲示板が眩しい。見慣れたはずの廊下が、知らない校舎のような顔をしている。そして目当ての教室の前へと進むと、ノックもせずに戸を開けた。
そして、思わず軽く一歩後ろへ引く。
「……瀬川か?」
言い当てられたことに、また驚く。目を凝らさねば見えないだろう暗い室内に、ぼんやりと白いものが見えた。
「先生」
迷うことなく、誰かを見分ける。
彼は中腰の姿勢で、何かをしていた。手元へと目をやれば、古い作品が山を作っている。今年の卒業生に置き去りにされたものだろう。毎年、必ずそういうのが出るのだと、嘆いているのを聞いたことがある。
白衣を着た美術教諭は、手を休めぬまま、覇気のない声で問うてきた。
「挨拶回りの時間にしちゃ、ずいぶん遅いな。お前のクラスは、これから二次会じゃないのか? 有坂がはしゃいでたぞ」
「あれはクラスの一部ですよ。俺はメンバーに入ってませんから……」
そうなのか、と言いながら立ちあがると、彼は大きく背をそらした。そうした仕草は妙に年寄りくさかったが、まだ二十代後半だそうだ。顔はむしろ童顔なのに、三十代でもおかしくない雰囲気を持っている。つくづく不思議な横顔を見上げ、瀬川は一つ息を呑んだ。
「穂住先生」
「ん?」
くるりと顔を向けた彼に、ためらいがちに言葉を選ぶ。穂住は穏やかな笑みで、教え子から話が切り出されるのを待っていた。
意を決した瀬川が口火を切ろうとした、その時。
「あ、やっぱりここか!」
がらりと無神経な音が響き渡った。じろりと睨んだことにも気づかず、ずかずかと入ってきた少年は、瀬川の肩を強く掴んだ。
「達也。お前、こんなところで何してんだよ」
「こんなところとは、ご挨拶だなぁ、佐藤」
背後から降った声に、佐藤は小さな悲鳴を上げてのけぞった。大げさな驚き方だったが、無理もない。存在を知っていた瀬川でさえ、彼が佐藤の後ろに回り込んだのには気づかなかったくらいだ。
「げっ、ホズミまでいたのっ?」
「穂住センセイ、だろう。この万年幽霊部員が。せっかくだから、作品の整理でもしていくか、ん?」
「遠慮しまーす」
軽口を叩き合う二人を見つめる目は、すぐにそらされてしまった。そんな友人の様子に気づいていないのか、佐藤はふとそちらへ向き直る。
「それより達也。お前、どうして二次会出ないんだよ」
「栄作。それは……」
「せっかく最後なんだしさ、みんな参加するって言ってるのに」
「俺は行けないんだって!」
強く食い下がる佐藤の手を、強い力が振り払う。その音に、静観するつもりだっただろう穂住も驚いて顔を上げた。
恩師の視線に、瀬川はますます頑なに表情を閉ざした。
「……分かった」
さすがに少し青ざめ、身を引いた友人とは目を合わせぬまま、うつむいてしまう。
「ごめん」
その一言を残して、佐藤はそそくさと教室を出て行ってしまった。
しばらく、沈黙が続いた。
「瀬川」
びくり、と身を固くした生徒にかけられたのは、予想外に柔らかい言葉だった。
「時間があるのなら、少し手伝っていってくれ。今年の卒業生はどうも学校にサービスしたいらしい」
こんなに物を置いて行ってくれたよ、と肩をすくめた穂住に、思わず笑みがこぼれた。
「良いですよ」
一つ頷くと、瀬川は去年と同じ要領かと確認し、机の上の物体を分け始めた。そちらは彼に任せ、穂住は窓に近い流しへと移動する。
沢山の筆が、所狭しと隙間に詰め込まれている。その中には、使いものにならなくなったものも数多い。
「全く、大掃除をさせても、意味がないなぁ」
「先生の監督不行き届きでしょう。きちんと指示を出さないと動かないですよ、生徒は」
「……お前、時々きっつい……」
奇妙なところで言葉を止めた。瀬川がそちらを見ると、彼は窓の外に気を取られているようだった。
「先生?」
呼ぶと、彼ははっとこちらを向いた。
「どうかしましたか?」
「……いや」
振り返った彼は、少しだけ動揺しているようだった。だが、すぐにいつものひょうひょうとした笑みを見せ、作業に戻る。妙だ、と思ったが、そう言われるとしつこく聞くのもはばかられたので、瀬川も口をつぐんでしまう。
今後のことなど、さりげない会話の中に、卒業生らしい感慨をかみ締めながら、最後の挨拶を済ませ、学校を出た。
それきり、母校を訪れることはなかった。
「瀬川君!」
向こう側で、大きく手を振っている。遠目からでも、誰なのかすぐに分かった。所属していた部活の友人だ。苦笑しながら、そちらへ駆けていくと、ドレス姿であることも忘れて、彼女は腕を大きく振り回した。
「瀬川君も来たんだね」
「来ちゃ悪いか?」
「悪いとは言ってないけど……瀬川君って、サオリのこと」
何か言いかけて、気まずそうに止めてしまう。こちらを窺うように見上げる視線に、瀬川はきょとんとした顔をした。
「ほ、ほら! 日程がぎりぎりだったから、来られない人も多いかなって」
「そうだね」
瀬川があっさりとした反応を見せる度に、彼女はますます慌て出す。
「あ、そうだ。穂住先生に会った?」
話題をそらす為だろう。ふいに飛び出た名前に、一瞬だけ、彼は戸惑ったように動きを止める。
「卒業以来、会っていないけど」
「そうじゃなくて、今日来てるんだよ。ほら、部活の顧問だったしさ。二人とも知ってるのって、ホズミくらいだから」
それを聞き、瀬川はそっけなく頷くと、適当に互いの近状の話へとすりかえる。数分、立ち話した後、また彼女は、別の友人を見つけたらしい。そちらへと行ってしまった。
瀬川は人込みから離れたところを求めて、人のいない方へと後退した。その拍子に、かたんとぶつかってしまい、慌てて後ろを振り返った。
「失礼」
謝罪の言葉は、相手の方が先だった。反射的に、こちらこそ、と頭を下げてから、その声に聞き覚えのあることに気づく。
「元気そうだな、瀬川。一瞬、見違えたぞ」
ぽかんと立っている彼に、そうでもないか、と苦笑する声こそ、最後の時と少しも変わらない。
「大学はちゃんと行ってるか?」
「行ってますよ」
「それは不健全だ。大学はサボるものと相場が決まってる」
「先生の時代じゃないんだから……」
学生の頃のような会話を交わしながらも、どこかぎこちないような気がした。
無理もない。相変わらず、同じ高校で教鞭をとっている彼と違い、瀬川の環境は変わった。そんな小さな違いでも、二年も隔てれば大きくなる。
ふいに、切なくなった。
向こう側からあがった声に、二人はそちらへと目を向ける。ちょうど、入口辺りで固まっていた輪がほどけ、今日の主役が歩き出すところだった。
ぐっと背を押され、瀬川は道の方へと近づく。綺麗な花嫁姿の幼なじみが、ちょうどこちらを見たところを狙い、にっこりと手を振ってみせる。
「お幸せに、お二人さん」
すると彼女は、瀬川の方へと身を乗り出した。そして、やっと聞こえる程度の声で囁く。
「その言葉、そっくり返してあげる」
「え?」
「ホズミセンセ!」
急に彼女は、大きな声を上げた。呼ばれた穂住は顔を上げ、そして彼目掛けて投げつけられたものを何気なく受け止める。
「あ」
「なに?」
手にした瞬間、それが何であるのかに気づいたのだろう。穂住は珍しく、面食らった顔でその場に立ち尽くしていた。
「あーっ! ずるい、先生!」
かつての教え子達の猛抗議に、彼は不満そうにブーケを突き出す。
「やる」
「今、貰っても、意味ないじゃないですか!」
「じゃあ、投げてやるから」
「花嫁からじゃないと意味ないんですってば!」
わいわいと騒ぐ背後に、呆気に取られていると、そっと幼なじみが耳打ちしてくれる。その言葉に、驚いて振り返るが、彼女は既に伴侶の手を取って、先へ進んだ後だった。
そんな二人の姿に、瀬川は改めて呟く。お幸せに、と洩らした言葉は、あの時よりも素直に響いた。そして背を向けると、ようやく元生徒達を下がらせた彼にそっと頭を下げる。
「先生。おめでとうございます」
「めでたいもんか」
予想通りの返事に、瀬川は声を出して笑った。そんな彼を、苦々しい顔でにらむ。
「大体、男がブーケを貰ったって、しょうがないだろうが。花婿さんになれるのか」
「どうでしょう。大抵、花嫁さんですけどね」
「勘弁してくれよ」
憮然と腕を組む立ち姿。いつも授業中に見つめていたその姿を見つめ、瀬川はこわごわと彼を呼ぶ。
「先生」
どうした、と振り返る柔らかい目に、またあの時のように言葉を詰めてしまう。
卒業の日、何のためらいもなく、その腕を選べる幼なじみが羨ましいと思った。想いを伝えることに、何の遠慮もいらない彼女が、羨ましかった。
最後だから、もう会わないから。そう言い聞かせて美術室に行ったけれど、いざ本人がいるのを目の前にしたら、とても告げられなかった。
あの日から、思い出したことはなかったはずだ。それなのに、彼を目の前にした途端、また想いが回り出す。
「卒業式の日に、言いそびれたことがあったんです」
「それは奇遇だな」
返答に、緊張していた身体が少しだけ緩む。そんな瀬川を見上げ、彼はにっと笑う。
「俺も、話したいことがあったんだ」
互いに、どんなことか、とは訊ねない。
ただ無言の内に交わされた約束だけがあった。
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