お月様だけが知っている
空を見上げれば、真ん丸なお月様一つだけ。
黙って満月を見上げている少年の膝には、さらに小さな少年がのっかっていた。弟とはいえ、少年の足には十分重い。だが、頬を伝う涙の跡を見ると、どうしても、どかす気にはなれなかった。
鼻を赤くして、眠っている子供は、時折思い出したように身じろきをする。その度に、足が痺れを訴えるのだが、少年は黙って耐えていた。
膝の上の弟に目を転じ、少年は深く息をついた。起こさぬよう慎重に、涙で濡れた前髪をかきあげてやる。閉じた瞼がこすり過ぎて赤くなっているのが見え、兄は更に目を曇らせた。
その日は、弟の誕生日だった。何日も前から、両親にねだったのは、共に夕食を囲むこと、それだけ。
なのに、直前になって両親は、仲良く約束を破ってくれた。
せめて、どちらかだけでもと頼んだものの、両親はそれぞれ、相手の方に言えといって、無情にも電話を切った。
軽く弟の頭を撫ぜてやる。その拍子に、かすかに唇がこちらへ上向いた。泣き疲れて眠った顔が、何の邪気もなく月へと向けられる。
とくん、と心臓が音を立てたような気がした。
音のない、がらんとした家。月明かりだけが差し込む部屋。誰もいない、誰の声もしない広い家。
この空間に、たった二人。
ふと、重ねてみたいと思った。深い意味などなく。
ほんの少し開かれた唇に、ゆっくりと唇を落とす。触れた部分の柔らかさに、あわてて身を退くが、弟は目を閉じたままだ。
誓って、やましい気持ちはなかった。だが、その行為自体は後ろめたくて、しばらくは月を見る度にばつの悪い思いをしたものだ。
だがそんな記憶も、少年が青年になるにつれ、徐々に薄れていった。
明かりのない家を見上げ、青年は小さく舌打ちをした。ふらついた身体を玄関の戸にもたせかけ、携帯電話の時刻表示を確かめる。
「んだよ、こんな時間にまだ帰ってねぇのかよ、あいつ」
液晶に表示された文字盤は、二十三時を指していた。大学生である自分はともかく、まだ高校生の弟にしてみれば遅い時刻だ。
実際のところ、彼も高校時代には、それくらいに帰宅していたこともあるという事実など、酔った彼の頭からはすっかり抜けている。
ここまで酔った彼が、そのまま家に帰ってくるのは珍しいことだった。ましてや数日前、一方的に恋人に別れを告げられた彼としては、弟と顔を合わせたくなかったのだ。
ただ女に振られた、それだけのこと。だが、その理由が、彼の心を一層荒ませ、家から遠ざけていた。
弟に対しては、兄として弱みを見せたくないという虚勢がある。だが、外泊を続けて三日目となれば、さすがに戻らない訳にはいかなかった。
単身赴任だ、出張だ、と常に両親不在の家は、兄弟で二人暮らしをしているようなものだった。大学に入り、外泊が増えたところで、兄を止める人間など誰もいない。
ただ、時折兄を見る弟の目が、若干冷たいことはあったが、お前もやがてはそうなる、と笑って流すだけだ。
「……っと、鍵はぁ……」
ポケットをかき回している内に、ぐらりと身体が揺れた。ずるずると踊り場にしゃがみこんだまま、まだポケットを探る。
「ええと……家のかぎ……どこやったっけ」
がちゃり、と背後の扉が音を立てた。振り向こうとした兄の肩越しに、薄い明かりがもれる。
「何してんの、兄貴」
玄関の明りに照らされた、骨張った腕。その先をぼんやりと追い、眼鏡をかけた弟の顔にぶつかる。
しばらくそれを見上げ、兄はゆっくりと首を傾けた。
「かぎ……探してた」
「呼び鈴鳴らせば良いじゃねぇか」
「だってお前、明かりが消えてたから、いないのかと」
ろれつの回らない舌でそう訴えると、彼は鼻で笑う。
「こんな時間にどこを歩き回ってるってんだよ。兄貴じゃあるまいし」
ほら、と差し出された手を断って立とうとするが、結局尻餅をついてしまう。そんな兄を見下ろし、弟は小さくため息を吐いた。
「何、駄々こねてんだよ。酔っ払い」
「……お前の手は、借りない」
眼鏡の向こうの瞳が、わずかに細められる。
「へぇ?」
その声音に不穏なものを感じた途端、身体が地面から浮き上がっていた。
「ば、ばか、下ろせ!」
「うるせぇ。騒ぐと近所迷惑になるぞ」
そう言われては、さすがの酔っ払いも口をつぐんだ。弟に担がれたまま、大人しく居間へと連行される。
弟は、兄を上回る背に、武道で鍛えた身体の持ち主だ。どちらかといえば、軽いスポーツを好む兄が、力で彼に敵うはずもない。
どさり、とソファーに投げ出され、彼は小さくうめいた。
「ったく、弟に手間かけさせんなよ」
ソファーの上に寝転んだまま、ぼんやりとした目で、居間の床に差し込む外からの明かりを追い続ける。
台所から、水の音が聞こえた。足音が近づいてくると、かたん、と傍らのテーブルが鳴った。そちらから目をそらし、窓の方へと視線をずらす。
「ほら、兄貴。水」
「……いらねぇ」
窓の向こうに、真ん丸い月が浮かんでいた。暗い居間から見えるその空に、かすかに昔の記憶が疼く。
何かあったろうか、と思い返していると、ふいに光が翳った。月をさえぎるように、こちらを覗き込んでいる瞳と出くわす。
背けようとした顔を押さえつけ、自分の方へと向かせると、彼はからかうように囁きかけた。
「俺にカノジョ取られたのが、そんなに口惜しいのか?」
ぐっと唇をかみしめる。違う、という言葉さえ、上手く出てこなかった。
月明かりの下でも、改めて近くで見つめると、整った目鼻立ちや、知的な容貌が良く分かる。
この目を前にして、落ちない女の方が少ないのかもしれない。
「兄貴」
その顔が、ぐっと距離を縮める。ぼんやりとした頭で、それを受け入れる。
「泣くほど、あの女に惚れてた?」
柔い感触が、そっと目尻をなぞった。
わずかに瞠目し、何が起こったのか理解した途端、兄の頬が紅潮する。だが、突き飛ばそうとした手は、相手の胸を押しただけであっけなく止まる。
「お前、何し……」
ゆるやかに、言葉が封じられた。そうなって初めて、自身と弟の体勢に気づく。上から押え込まれた状態に、酔いが一気にさめた。
「……っ!」
何度かもがく内に、自然と彼の体が離れた。動揺のあまり、怒りをあらわすことも忘れた兄を見下ろしたまま、彼は静かに問う。
「覚えてる?」
「な、にが……」
「今日、俺の誕生日だってこと」
兄はぽかんとした顔をした。それを見、弟はかすかに唇を歪める。
「やっぱり、忘れてたんだ」
嘲りのこもった笑いをたてる。
「結局、兄弟なんて薄情なもんだよな。恋人が出来れば、そっちに心を持ってかれちまう」
素直な謝罪よりも先に、怒りが湧いた。つい、反論してしまう。
「仕方ないだろ。そんなのお互い様じゃないか。お前だって、兄貴に祝われるよりは、友達とか恋人に祝われた方が」
だが、反論は途中で止められた。思いの他柔い感触に、奥深くに閉じ込められた何かがざわめく。ふと月へと視線を上げ、彼はそっと嘆息した。
――あの時、自分は単純な衝動でそうした。
唇が触れることが示す愛情がどういうものなのか、弟に向ける愛情の表現として適切なものなのか、まだそんなことを知らずに。
なら、この弟の行為も、あの時の自分と同じことなのだろうか。
人気のないこの家で、たった二人。他の誰かを求めて泣くきょうだいを前に、かける言葉もなく、ましてや、ここにある愛情を示す手段も知らずに、触れることで伝えようとしたあの時と。
「……兄貴」
そっと頭をかすめた兄の手に、弟の背が緊張する。
「ごめん、な」
兄の言葉に、眼鏡の向こうの目が、一瞬だけ大きく見開かれ、やがて苦々しげに細められる。どうした、と優しく声を紡いだ口唇が、またふさがれる。
もどかしげに外された眼鏡が、傍らのテーブルで硬い音を立てた。
執拗に重ねられる唇に、兄は時折息苦しそうに眉をひそめたものの、ただ黙って好きなようにさせていた。
居間へ差し込む月のとばりが、二人を避けるように動いていく。それを目で追いながら、兄は上に手を伸ばした。弟の頬に触れた指先が、かすかに濡れた。
ふと、視線が交錯する。
弟は知らない。子供の頃、誕生日に起きたことを。知っているのは、ただ兄が自分に向ける感情は、あくまで家族のそれでしかないということ。
そして、兄が知っているのもまた、弟が抱える寂寥感の断片だけ。それを与えたのが自分だとは思いもしないし、ましてや、弟が自分に向ける感情が、自分が弟に向ける愛情と違うことなど、気づくはずもなかった。
あの時も今も同じようにかがやく、お月さまだけが知っている二つの心。
絡み合う視線が、もどかしげに互いを探りながら、ただ何かを伝えようとしていた。
Novel
top