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「おい、ヨーゼフ! ヨーゼフゥッ!」
「……聞こえてるよ、バロン」
 だから、大丈夫。そんな風に呟こうとしたが、思った以上に疲弊が激しい。
 足元で、きらりと何かが光った、と思った次の瞬間、ヨーゼフは高めの檀上から地面に向かって飛んでいた。空座を爆風が叩いたのを見上げ、ヨーゼフは注意深く立ち上がる。
(怪我は、ないよな)
 自分の身体を確かめ、目立った怪我がないことを確認する。
 怪我をしてはいけない。自分は、このファーシルの王となる人間なのだ。
 たとえ、その器ではなくとも。
「さ、て……」
 油断なく構えるヨーゼフは、王子に駆け寄るもの、そして逃げ惑う群衆の中に、鈍い銀のきらめきを見ていた。
 心が痛まないかといえば嘘だ。だが、ためらいはあるか、と聞かれればノーと答える。
 空を仰いだ次の瞬間、風が吹いた気がした。
 たん、と硬い音がして、白い正装に身を包んだ、青年が大きくマントをなびかせながら、こちらを振り返る。
「怪我は……?」
 地上に降り立った、彼の姿に、ヨーゼフは硬い表情のまま、端的に返した。
「いや、ない」
「それは何より」
 優雅に笑う笑みは、ヨーゼフの無事に安堵したのではないのだろう。
 法を司る彼の問いには、特別の意味がある。
「キルシュ、余は」
「我が名は!」
 凛、と響いた声に、ヨーゼフを取り囲む敵意が凍りつくのを感じた。続く声が、更に場を緊迫させる。
「我が名はキルシュ・ビバルディ! 司法院最高裁判官の銘を継ぐ者なり!」
 一歩、前に出たキルシュは、彼らとヨーゼフを阻むかのように立ち、挑戦的に両手を広げてみせた。その行動に、一瞬動揺したヨーゼフだが、すぐに彼の真意に思い当たる。
「ま、さか」
 よせ、と叫ぼうとして、自問する。
 この制止は誰のためだ。
 こうして身を呈してまで、その責務を全うするキルシュを救うためなのか。それとも、この刺客達のためか。
「キルシュ! 聞け!」
 迷いの中、ヨーゼフは強く、高らかに告げる審判の音を聞いた。
「キルシュ・ビバルディ! 最高裁判官アリュード・ヒルズの銘において、お前の枷を解き放つ!」
「……同じく、セリカ・ゴールドの銘において、この場における、汝の罪を不問とする」
 二人の最高裁判官の宣言。
 ああ、とぼう然とするヨーゼフの他に、その意味を正しく理解した人間はけっして多くなかったろう。
 黒髪の天使は、冷徹な表情を歪ませることなく、そっと囁く。
「全ては、司法の庭の意のままに」
「よせ、キルシュ・ビバルディ……!」
 その言葉に、意味などなかった。もう無駄だ。たとえ王子であるヨーゼフでも、彼らを阻むことなど出来ない。

 最高裁判官の下すその宣言は、正当防衛、緊急回避という法の元に認められた、緊急執行の始まり。
 法の元、死でもって、人が裁かれる合図。

 次の瞬間、キルシュの手からしゅん、と何かが飛んでいた。やや遠くにいた術者らしきフードの男がのけぞって倒れたのが見えた。はっと仲間が飛ばした何かを、銀の分銅がいとも簡単に弾き飛ばし、その鎖で近くの男の剣を絡め取る。
「……野郎……っ!」
 襲いかかろうとした数人を、キルシュは鼻先で笑い飛ばし、たん、と踏み込む。
 左手で扱うチェーンがいともたやすく数人を絡め取るのと同時に、右手に携えられた細い短剣が敵の喉元を切り裂き、絶命させる。
 その技は、最高裁判官の座が持つ、ひどく歪な一面をまざまざと見せつけられる。

 司法の庭に住む魔物。

 彼らはファーシルの中で国王に次ぐ権力を擁する機関というだけではない。まさに、司法の名のもとに、時に最強となることを求められる。
 彼らは、人を越えた魔物。
 最高裁判官全てが武術に長けている訳ではない。だが、キルシュはその能力において、おそらく群を抜いている。
 彼が司法院でその地位を確立出来るのは、単純な頭脳だけではない。ましてや、ヒルズ家の庇護だけでもない。運動能力、戦闘能力、そして何より、その、非情さが、彼の存在価値なのだ。
 平民出であり、親からも捨てられた少年が、この地位を手に入れるだけの力は、並大抵のものでは許されないのだ。

(……ああ)
 知らなかった。
 ヨーゼフの知る彼は、あの花畑の中で冠を紡ぐ、優しい目をした少年でしかなかった。
 歳月が経って。人が変わることを知っていて、彼の立場を知っていて、自分の手だって綺麗ではいられなくなったくせに、でもヨーゼフの思い出だけは美しいままだった。

 だが、これが現実。

 そうだ、きっとヨーゼフの感傷は正しくない。だが、それでも考えてしまう。

 力持つものが命を狙われるのは、仕方のないことなのだ。
 責務を全うできないものが、その責めを問われることのない世界など、きっと腐ってしまう。
 だから。

「……ミトラ」
 ああ、どうして僕は、その名を与えてしまったんだろうね。
 そう呟いた瞬間、巨大な司法官の背中が、一瞬だけ揺らいだ、ように見えた。  

素材配布元:「神楽工房」様