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「早く確かめて下さいよ、殿下ぁ」
「わ、分かっている」
 つい、声が上ずった。
 間違いないと言いながらも、どこか自信がない。そもそも、彼は自分のことを覚えているだろうか。
 どきどきしながら、後をつけていく。
 だが、なかなか声をかける機会は訪れなかった。
「なーんか、あのキャスリン嬢とは、大分イメージ違いますね」
 後ろで呆れたような声が聞こえ、思わず張り倒したくなった。
 確かに、酷く自暴自棄に見えた。

 酒場を梯子しながら、いくつも杯を開けている。
 それでも、さほど弱くはないのか、三軒目を出たところでは、既に五本以上は空けていたはずなのに、一向に酔っている気配はなかった。

 次の四軒目に入ろうとしていた彼の腕を取る。
「あ、あの!」
 彼は、心なしか胡乱な目を上げた。
「あ、あ、あ、あの」
 しばらくぼうっとしていたが、やがて眠そうに目を細める。
「何?」
 低い、良く通る声だった。ぞくり、と身震いさえ覚える。
「あ、あの、あのその、キルシュ・ビバルディ殿ですか」
 驚くほど、自分が緊張していたことを知る。彼は怪訝そうに、こちらを見た。嫌われたのか、それとも不審がられたのか、と怯えるヨーゼフに、彼は軽く首をかしげた。
「そうだけど、君は誰?」
 君は誰、と問われたことにひるみそうになるが、しかし、名乗っていないのはヨーゼフも同じなのだ。勇気を出して、訊いてみる。
「僕を、覚えていませんか。あの、花畑で」
「お花畑?」
 彼は一度聞き返すと、どこか投げやりに肩をすくめた。
「さぁね。花畑なんて、母親が死んでからは行く暇もなかったし」
 ――ずきり、と胸が痛んだ。
 以前、キャスリンについて調べた際に入ってきた彼の経歴が、今の彼の姿に重なる。あれだけの報告でも、苦労していることがわかる。
 秘せられた分も含めれば、どれだけの苦労を重ねてきたのか、ヨーゼフには見当もつかない。
 もし彼が初恋の君だったとしても、彼に流れた時間は、果たしてあの時の記憶を残してくれただろうか。
 ごくり、と息を呑み込んだ。
「子供の、頃です。貴方に花冠をあげたことがある」
 しばらく、彼は首を傾いでいた。その一瞬に、ヨーゼフは何万もの時が経ったような気さえした。じっとりと拳が汗をかく。
 やがて、ゆっくりと青年は眉を上げた。
「ああ……覚えている。なるほど、あの時の」
 その言葉を、どれだけ待ち望んだろう。感激のあまり、昇天していたヨーゼフに代わり、冷静なバロンが更に詳しく問う。
「あの時って、どの時です」
「どの時って――忘れたよ。少なくとも、母が亡くなるよりも前のことだ。花冠は妹の為に作ってやったものだから……そうだな、十五年以上は前のことだろうね」
 面倒くさそうに頭を掻く。ずいぶんとゆったりと話すところから見て、見ため以上に酔いが回っているのかもしれない。
「どんなやり取りがあったんですか」
 なおも食い下がる魔法使いに、彼は形良い眉を大きくつりあげ。

 吐き捨てるように言った。

「――思い出したくない」
「何故」
「僕にとっては不愉快なことこの上なかった」
 その言葉が、どんなにヨーゼフを打ちのめしたのか、彼は知らないだろう。
「女に間違われるのは慣れていたけどね。よりによって、女として告白されたのは、後にも先にもあれだけだっての、全く」
「ち……」
 違う。そう言おうとしたヨーゼフの腕の中に、もつれるように倒れこんできた。慌てて支えた手を振り切るようにして、よろよろと壁に手をつく。そして、そのまま地面に座り込んでしまった。
「ヨーゼフ様」
「うん――これは」
 酔っているように見えないが、本当は一人で立つことさえ出来ぬほど、酩酊しているのだろう。すでに、泥酔状態だ。
「何でここまで呑んだんだろうねぇ」
「そりゃ、酔いたくもなるでしょう。明日からのことを考えれば」
 魔法使いの目が、やや困ったように開かれた。おそらく、同情しているのだろう。彼の言わんとするところを察し、ヨーゼフは神妙な顔で黙り込んだ。
 ――平民出身の裁判官。
 彼は道理を通した結果、面白くもない事態に追い込まれるだろう。実父ながら、あの男の愚かしさには、目を見張るものがある。
 そして、この事態を招いたのは、他ならぬ自分だ。
「王の怒りを買ったら、どうなるんだろう」
 ぼそりと呟いたヨーゼフを、漆黒の瞳が見上げた。鋭さが抜けた視線に、思わず身体を強張らせる。
「別に、構わないんだ。僕は」
「え?」
「僕がいなくても、アリュードがいる。だから、もう僕がいなくても」
 無邪気な目が、ふわりと笑った瞬間、ヨーゼフは確信した。

 この笑みは、あの時も今も、変わらない。
 だが、無邪気な笑みの下にあるのは、その柔い美貌に似合わぬ強さだ。  自分のものにするのではなく、ただ大空へ自由に羽ばたかせることを望むような、そんな無償の愛情を注ぎ続ける。誰かの為に、身を投げ出すことも厭わない。
 その強さが、彼を気高くも優しく輝かせる。

 悪魔のような誘惑が、心を満たす。それを押さえつけた途端、こみ上げてくるのは矛盾をはらんだ言葉だ。
 そっとひざまずくと、後ろから抱きとめる。腕の中の彼は、さしたる抵抗もなく胸におさまった。
「貴方を捕えて良いのだろうか」
 囁きかけると、彼はかすかに身体を動かした。だが、すぐに目を閉じてしまう。
「王の伴侶として、玉座に縛りつけて良いのか」
 軽くバロンのいた方を見ると、彼は手際良く、馬車を拾いに出ていた。そんな手回しに感謝しながら、ヨーゼフは腕に力を込める。
 細く見えても男性だ、決して軽くはなかったものの、何とか抱き上げることが出来た。そのまま馬車が来るのを待ち、乗り込もうとしたヨーゼフの耳に、彼の独り言が届いた。
「……でも」
「え?」
「花冠は嬉しかったんだ」

 その言葉を聞いた途端、ヨーゼフは改めて気付いた。
 彼にあげた花冠は、無邪気な美しさしかなかった。
 だが、これから彼に捧げる冠は、決して美しいだけのものではなく、彼を縛る枷となるだろう。
 司法の庭に住む彼を手に入れることは、彼の居場所を取り上げ、閉じ込めること。

 幻でしかなかった、時を止めた想い人。  だが、その人が確かな存在に変わった今、ただ好きというだけでは、どうにもならない現実がある。
 彼と共にいたい、その想いが故に。
 いつかは、この手を離さざるを得ないのかもしれない。

 ――それでも、今、この時だけは。

 手に力がこもる。やっと見出したその人を離すまいとする腕だけが、ヨーゼフの真実だった。

素材配布元:「神楽工房」様