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「家長として、奮いたまわる全ての権限をもって、私は宣言します」
 一つ、息をついた。その横顔は凍り付いており、表情をうかがうことすら出来ぬほどだった。
 黒い正装をした青年は、一人の男と向かい合っていた。その周囲には、まだ状況を呑めずにいる立ち合い人達。
 男の――ジェラードの顔は蒼白だった。彼に挑むように、視線を投げかけたキルシュは、厳かに告げる。
「キャサリン・ビバルディにとって、私が唯一の家長であり、絶対の権限を有することを」
 そう宣言したキルシュの胸には、ある決意が秘められていた。



 昨晩のことだ。
 内心の苦悩を押し殺し、一心にペンを走らせていたキルシュは、部屋の窓を叩くかすかな音に気づいた。身構えつつ、カーテンを引いた瞬間、彼は面食らう。
「アリュード」
 窓の外にあったのは、大臣の家に乱入した責を問われ、謹慎処分を食らっているはずの友人の姿だった。もちろん、謹慎処分の意味は分かっているのだろう。彼は、人目を忍ぶように、そっと片手を挙げてみせた。
 無言で中へ入れてやると、キルシュは適当な椅子を勧めた。だが、神妙な顔をしたまま、ずっと立ち尽くしている。
「どうした?」
 水を向けると、彼は切羽詰まった様子で、重たい口を開いた。
「キルシュ、大切な話がある」
「何だ、あらたまって」
 和ませるように、軽く苦笑したキルシュは、その笑みのまま固まる。彼の前には、深く頭を下げたアリュードがいた。そして、その口から出た言葉は。
「キャサリンを、僕に下さい」
 真摯な響きだった。
 キルシュはしばらく無言だった。何とか絞り出したのは、かすれた声だけ。
「しかし」
「父から、全てを聞いた。それでも、僕の答えは変わらない」
 逃げ口上を遮り、アリュードは明言した。
「今回、キャスリンをさらっていったのが、僕らの父だとしてもか?」
「変わらないと言ったはずだ」
 その返事を聞いたキルシュは、しばらくの間を置いた後、そっと苦笑して。

 ゆっくりと、頷いた。



「キャサリン・ビバルディを育ててきたのは、この私です。親としての義務を一切放棄し、彼女に対して一円たりとも援助を与えなかった男に、全権を振るう家長たる資格はありましょうか。この国の法律は、そうした男を親とは認めぬのです」
 堂々と声を響かせる美貌の青年から、いつも見せる控えめな笑みはなかった。時に強く、時に切々と抑揚をつけて、高らかに訴える青年の言葉には、誇りと自信が満ち溢れている。
 その圧倒的な力が、場内を支配していく。
 場の高揚を感じ取ったジェラードは、恐ろしい形相で歯を食い締めている。
「キルシュ、貴様……幼い頃、私が与えてやった恩も忘れたのか」
「それ以上のものを貴方は私から奪いました。そしてまた、見合いもしないだけの犠牲を払わせようとしている」
 高圧的な揺さぶりを、ぴしゃりと弾くと、キルシュは長い指を突きつける。
「もし殿下の寵愛を受けず、道端で春をひさぐ娘になっていたら、貴方は果たして彼女を娘と認めたでしょうか。その苦境から救うだけの意志が残っていたでしょうか」
 激しく迫った攻撃の手が、一瞬やんだ。波が引くように、静けさが満たす空間に、凪のような声が戻ってくる。
「貴方を信じていました。だから、家長権限をあえて行使せず、貴方とキャスリンの絆ともいえる籍を抜かずに来たのです」
 誰もが、固唾を飲んで見守っていた。ジェラードでさえも、言葉を失い、唇を食い締めるだけ。その彼に、冷たい視線が投げかけられた。
「今にして思えば、愚かなことですね。あなたに、親としての情を求めるなど」
「子供が親に意見するつもりか」
「貴方が望んだことでしょう」
 そう言ったキルシュの顔に、感情らしきものは何一つなかった。
「忘れないで頂きたい。親であることを辞め、息子と名乗ることを禁じたのは貴方の方だ。縁を切った今、私達は親子でも何でもない」
 当然のように言うと、彼は悠然と礼をした。
「今、僕は貴方に感謝していますよ。息子ではないと、切り捨てて頂いたことをね」
 あげた顔には、この場に出て、初めての笑みが浮かんでいた。
 場には似つかわしくない、柔らかい笑みが。

素材配布元:「神楽工房」様