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 そこには、思った通りの人が横たわっていた。真っ白な服に身を包んだ黒髪の少女は、まるでおとぎばなしに出てくるお姫様か何かのようにさえ見えた。
 そっと肩を揺すっても、目を覚まさない。どうやら、こちらも薬を盛られたようだ。
 仕方なく抱えあげようと腕を回したヨーゼフの耳元で、そっと囁くような声がした。
「アリュード……様」
 驚いて彼女を見る。寝言だろうか、それとも薬の作用だろうか。幸せそうに眠る彼女の唇から、そっと声が洩れた。
「ずっと、お慕い申し上げておりました」
 それを聞いた瞬間、彼女の寂しげな笑みの理由が分かった様な気がした。
(勿体ないことです)
 どんな思いで、あの言葉を口にしたのだろうか。
 身分の差から、アリュードの求愛を拒めぬように見えた。だが、真実はもっと残酷だ。
 身分が違うからこそ、彼女はアリュードの気持ちに応えることが出来なかった。

 ――どんな気持ちで、恋慕を押し込めてきたのだろう。

 再び彼を見たヨーゼフの眼差しは、冷たく燃えている。
「これは、どういう事だ」
「そ、それはその……」
 彼が一歩下がった時だ。かすかに開いた廊下への扉から、威勢の良い声が洩れてきた。
「キャスリン! ええい、離せ!」
 どかり、と何かを壁に叩きつけるような音が響いた。ヨーゼフは苦笑し、少女を抱えたまま、扉へと手をかける。
「今回は不問にしてやる。その代わり、二度目はないと思え」
 頷いたかどうかは確かめなかった。廊下に出、声の方へと向かうと、予想通りの光景が広がっていた。
 金髪の裁判官が罵声を上げて、まとわりつく側仕え達を振り払っている。その手並みは、見事なものだった。
 この国の最高裁判官は、かなり武芸に長けているといわれているが、実際に目にしたのはこれが初めてだ。思わず、感心して見入っていると、彼がこちらに気づいた。
 おっとりとした童顔を、限界まで歪めながら、こちらに突進してくる。
「貴様……彼女に何をした!」
「さて、ね」
 冗談めかして応えたものの、噛みつきそうな男の顔に、慌てて首を振る。
「いや、何にもない。初恋の君に誓っても良い」
「ふうん……」
 その言葉に、やや怪訝な顔をしたが、ひとまずは収まったようだ。
「では、これはどういうことだ」
 一通り、経緯を説明してやると、アリュードは見る見るうちに青ざめた。そして、司法の庭に立つ者の顔で、廊下の奥を見る。
「催淫薬だな。それも違法薬の可能性がある。そのメイドに感謝すべきだな」
「……でもそれを口にしたとしても、どうにもならなかったと思うね」
「何故、断言できる」
「他の男の名を呼ばれたら、コトを起こす気も失せるよ」
 一瞬、呆けたような顔をした。だが、すぐに頼りなげな目を伏せてしまう。歯噛みしながら、ヨーゼフは強く言葉をかぶせた。
「誰の名を呼んだと思う?」
「誰のって……」
 戸惑うアリュードの腕に少女を押しつけると、ヨーゼフは突き放すように顎をしゃくった。
「好きなんだろう。だったら、そんな辛い恋をさせるな」
 そのまま、アリュードの横をすりぬけるように、外へ出る。
 階段を駆け降り、ヨーゼフは荒い息で顎の汗を拭った。怒りのせいだろうか、手がまだ震えている。
 それをもう片方の手で包み、ヨーゼフは固い表情で暗いところで、心が静まるのを待ち、ゆっくりと館を振りかえった。
 二人が、館から出てきたのを見守る。その背後に、そっと人影が寄った。
「侍女には、解毒の魔法をかけておきましたよ、殿下」
「アリュードを導いたのも、お前か?」
「かく乱にはもってこいかと思いまして」
「それ以上に、役に立ってくれたよ」
 ようやく安堵の表情を浮かべたものの、ヨーゼフの顔は晴れなかった。
「ヨーゼフ……」
 気遣う友人に、帰ろうかと笑いかけ、王宮へと足を向ける。どちらともなく沈黙する中、ヨーゼフは何度目かのため息を吐き出した。
「――花冠、か」
 そっと、思いをはせたのは、あの不器用な指。そして、戸惑った後に浮かべた笑顔の柔らかさ。
 その神々しさに、ついに名前さえ聞くことができなかった。名前を聞けば、このやましい思いが伝わってしまうような気がして。
 あの頃のヨーゼフは、臆病だった。相手に嫌われないか、それだけを考えて、何も出来なかった。その事を、未だに後悔している。
「罪なんだろうか」
 誰ともなしに語りかける。唯一の聞き手は、黙ってヨーゼフの後ろについてきていた。
「王子である僕が、君を思い続けることは」
 沈黙が答えを返す。応える相手を持たぬ問いは、ただ闇へと広がって消えた。

素材配布元:「神楽工房」様