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 彼が目を覚ましたのは、夜だった。重たい目を開くと、外からのほの白い光が射し込み、居間をぼんやりと照らしている。
 今、何時だろうか。
 時計を探りながら、彼は必死に昨晩の記憶を追っていた。

 確か、昨日は友人と話をしていた。今日はちょうど非番だったので、具合の良くない妹の代わりに家事をしていた。
 昼食を部屋に持って行った後、食器をさげる為に下へと降り、居間からダイニングへ抜けようとしたところで、玄関の呼び鈴が鳴った。
 それから――
「……っ!」
 彼は、落ちた食器や自分の姿には目もくれず、二階へと走った。
「キャスリン! キャスリンッ!」
 悲鳴混じりの呼びかけに、応える声はおろか、音一つ聞こえない。乱暴に開かれた扉の向こうには、空になった寝台。
「あ……」
 キルシュは、言葉を失った。ふと、ベットサイドに置かれた何かに気づき、手を伸ばす。
 それは一枚の紙だった。
 目を通したキルシュは、みるみる色を失っていく。
「キャスリン!」
 きびすを返すと、彼は一階まで駆け下りていた。部屋の扉を片端から開き、名を呼ぶ。家中をかけ回ったキルシュは、どこにもその姿がないことを知ると、外へ飛び出さんとする。
 その瞬間、彼は何かに気づいたように、体を強張らせた。
 扉に手をかけたまま、ずるずるとへたり込む。呆然としている青年の元に、彼の大声を聞きつけた隣家の青年が駆けつけて来た。
「どうしたんだ!」
 彼の視線は、キルシュの頭越しに家の内部を見ていた。あちこちが開かれたまま、だらしない姿を晒す惨状に、彼はすぐに状況を察した。
「キャスリンに、何かあったんだな」
「部屋にいないんだ」
 うなだれたまま、抑揚のない声でそう言った。
「どこにもいないんだ、アリュード……」
 彼を見上げた友人の顔に、アリュードは戸惑いを隠せなかった。隙のない瞳が、今は見る影もなく、無防備にその輝きを晒している。
 その肩を捕まえ、アリュードは強く揺さぶった。
「何をしている、キルシュ。普段のお前なら」
「君が、どこまで僕を知っているというんだ!」
 強い口調で払った手の向こうで、美貌の兄ははっとするほど、稚い顔をした。
「ごめん……」
 気まずい沈黙の後、アリュードは、低い声で言った。
「確かに、分かち合う事は出来ないと思うよ」
 キルシュは、目を合わせない。ただ項垂れたまま、じっと考えこんでいるようだった。そんな彼を、青年は決然と見据える。
「ただ、これだけは約束する。たとえ、あの子が他の男のものであっても、僕は――」
 一度、ためらう。だが、彼ははっきりと次の言葉を口にした。
「本物には敵わない。それでも僕は、あの子を守り続ける。兄のように」
 キルシュが顔をあげた時、アリュードは部屋を出て行く所だった。
「待て……」
 足がもつれた。その間に、アリュードは既に階下へと降り、館を出ようとしている。
「アリュード!」
 呼びとめた声だけが、虚しく家の中を通りぬけていった。



 書類を整えると、彼は大きく肩を落とした。
「ヨーゼフ……」
 気遣わしげに呼んだ友に、ヨーゼフは何とか笑みを作った。
「ずっと考えていた」
「何が」
「どうして僕は、もっと普通の恋をしなかったのだろうってさ」
 ぱさりと書類を置く音が、小さく響いた。ヨーゼフは髪をかき回しながら、冗談めかして笑う。
「君は魔法使いだろう。何か、良い魔法は知らないか?」
「確かに魔法使いってのは、あらゆることを可能にするけどな」
 腕を組んだ魔法使いは、しかめ面で応えた。
「どうしても、それだけは叶えられない。人の心を変えることだけは」
「そうか……」
 ヨーゼフは笑みを深くし、満足げに頷いた。
「少しだけ、安心した」
「なら良い。ゆっくり休め」
 軽くヨーゼフの肩を叩くと、彼は部屋を出ていく。その背にありがとう、と囁き、ヨーゼフは再び一昨日のことを振り返った。

 笑顔を見る度に、胸に込み上げる疼痛。それは、確かに覚えのあるものだった。
「だが……」
 もどかしげに指が机を打ちつけるリズムが早まった。そこに、重ねるようにノックの音が響く。
「誰だ?」
 身を起こしたヨーゼフは、部屋に入ってきた人物を見ると、あからさまに嫌悪の色を示した。だが相手は、不快な顔をすることなく、平然と身をかがめてみせる。
「こんな遅くにごめんなさいね、ヨーゼフ殿下」
「何用か知らぬが、早々にお引取り願いたいものだ。貴方が、こんな夜更けに訪ねてこられたと知ったら、父がどれほど気に病むことか。貴方の夫も含めてな」
「あら、陛下の息子であらせられる殿下の元を訪れることが、それほど不自然かしら」
 棘のある言葉を、平然と受け流す妖艶な女は、ローザンヌといった。今、都では逆らえる者のいないと言われるほどの女だ。
 ヨーゼフの父、国王の寵愛を欲しいがままにする妖婦。
 だが、ヨーゼフは怯まない。万が一、父王の不興を買っても、継承権が揺らぐことのない正当なる王子だからこそ、為せることだ。
「控えるがいい。たとえ父を篭絡したとしても、私まで落ちるとは思わぬことだ。ましてや、不義の罪を働く女に母親面をされるなど、不愉快この上ない」
「あら? 私の話を伺えば、そんな気分は晴れますわ」
「どうだろうか」
 鼻を鳴らしたヨーゼフに、媚を含んだ流し目を送ると、ローザンヌはそっと腕に寄り添うように動いた。
「たとえば、王子の恋敵が、本当にあの娘を愛しているのか、と言った話ですわ」
「何だと?」
「ご興味、ありませんの?」
 たっぷりとした質感のある胸を押しつけてくる女から、やんわりと体を引いて距離を置きながら、ヨーゼフはしばらく思案に暮れていた。
 そして、厳めしい顔で一つ頷く。
「何だというのだ」
「それこそ、こんなところではあらぬ誤解を招きますわ。私の館で、夫を交えて、ゆっくりと……そう、ゆっくりと、ね?」
 巧みに指を這わせる女に、懐疑の目を送りながらも、ヨーゼフは重い腰を上げた。

素材配布元:「神楽工房」様